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2011年1月29日 (土)

エジプトとインターネット遮断

こういうことはこのブログなどで過去に何度も書いているから、今さら書くのもうっとおしいが、要するに、FacebookとかTwitterとか異様に巨大なサーバサイトがあって、何億(!)もの人たちがその単なるクライアントとしてぶら下がっているという形は、ネットワークのあり方として、社会的にも技術的にも不健全であり*、なるべく早急に廃棄されるべきなのだ。〔*: 全然、inter-net(s)になっていない!〕

なぜApple製品が売れるのか? あまりにも多くの人が、平然とあまりにcomplacentに、コンピュータイリテラシーだからだ。なぜFacebookでありなぜTwitterなのか? あまりにも多くの人が、平然とあまりにcomplacentに、コンピュータイリテラシーだからだ。たとえばエジプトの活動のリーダーたちも、本当に自主的なコンピュータリテラシー、ネットワーキングリテラシーになろうと心がけてはいないだろう*。〔*: 自分たちのローカルなサブネットを持っていないから、"遠くアメリカの"巨大サーバにアクセスできなくなると、ネットワーキングとしてなんにもできなくなる。(参考記事(1)、(2)、(3)。〕

〔参考記事(4)…iwatani部分試訳〕

ネットワークが、政府が簡単に遮断などできない、堅牢で実効性の高いものであるためには、巨大サーバ型ではなく、極小多数のミニネットワークから、単一の(==最大の)インターネット本体に至るまでの、多重性複層性を持つ必要がある。比喩として言えば、市民が集まる広場が一つしかなければ、政府は弾圧しやすいが、不特定複数あって、ユーザも物理的肉体的には単一ユーザでありながら、それらの上の複数同時存在ユーザであるなら、効果的な弾圧は絶望的だ。

今回の国家権力によるインターネットバックボーンの遮断を、巨大サーバ依存型のネットワーキングはだめだ、という自覚につなげてほしい。真のコミュニケーションネットワークは、分散性×多重複層性を基本形とするものでなければならない。それには、末端最ローカルに至るまで、人びとが、自主的なコンピューティングリテラシーでないとね。だって、コミュニケーションに自主的であるって、当たり前のことでしょうが。

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2011年1月24日 (月)

しつこく正しい自然観

何億年か前にメタンと何とかが結合して、最初の生物らしきものができた、とか言うけど、

世界の、宇宙の、存在の唯一のリアリティ、全リアリティの唯一の基盤は「自己」である。一般的な対象知にすぎない従来の科学は、存在のリアリティに到達することなく、リアリティを導出できない。

(哲学に関してはグローバル世界のデフォルトスタンダードであるような哲学は未だに存在しない。)

えーと、だからその科学者某氏の「自己」や、私や、今この文を読んでいるあなたの「自己」や、仕事中は膝に乗ってくるし、昼寝(仮眠)中は必ず胸や腹に乗ってくる猫のココちゃんの「自己」は、メタン化合物とそのその後の歴史過程から導くことができない。

だから、真の知、正しい自然観としては、一般的な対象知ではない知、仮称: 主体知が必要なのだ。
前回の中心的な話題となった、外部対象ではなく「それに対し人間が行った定義」を検討の対象とする知は、そのような主体知の一環である。


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2011年1月16日 (日)

障害者

かつて野菜作りを4〜5年経験して、今でももっとも鮮明に記憶に残っていることは、
「作物は均質ではない」ということ。同種の野菜でも、数十個〜数百個が、それぞれ違う。小さいのも大きいのもあり、まっすぐのも曲がってるのもある。濃い色のも薄い色のもある。つやつやした葉のや、モザイク病で葉っぱが縮れたのもある。

多少味の違いはあっても、どれもおいしく食える。

野菜に対し、「障害者」に相当するタームは、「規格外品」だろう。

どちらも、トレードへの適性をベースとする概念だ。

そろそろやめよう、トレードを軸にヒトを見るのは。

障害者への支援や補助は要らない。'いわゆる'障害者であろうがなかろうが、金持ちのクソガキには金の支援は要らない。逆に、トレード(の成功)からの落ちこぼれで困ってるやつには支援を与えればよい。障害者であろうがなかろうが、関係ない。

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ショパンコンクール

今年の、じゃなかった昨年のも含め、ショパンコンクールの優勝者って、音楽性的につまんねー人だよね、だいたい。

そもそも100数十名の参加者、10数名の決勝進出者って、おそらくそれぞれが、すばらしい個性の花だろうが。

それなのにわれわれは、選りに選って、もっともつまんねーやつ一人しか知ることができない。

コンクール、という時代錯誤を、あたかも優れたもののように護持しているアホどもが、「個」と「表現」を抑圧し、だめにしている。そういう人たち全員死んで、コンクールというものがこの世からなくなってほしい。

インターネットの時代は、そういった死と改変を要求している。

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2011年1月11日 (火)

コミュニケーション理論の難問(1)

コミュニケーション理論の難問(1)
『コミュニケーション不能』の「共同体」から「個」への移行/継承

1-1 共同体内部
共同体内部では、その共同体の「ならわし」と「ローカル権力による決定」(その最末端が男権〜父権)がすべてなので、コミュニケーションというissueは発生しないし、存在しない。コミュニケーションの主体としての「個」が、共同体内部には存在しない。

1-2 間共同体
間共同体においては、戦争とトレードと差別(相互排他)を主な現れとするところの「コミュニケーション不能」が、諸問題を'解決'するとともに、その基調低音たる排他性が各共同体の存立そのものを支える。

#今でも、反中国が、喉元過ぎて60余年、再び日本共同体の存立根拠となりつつある感触が。おとろしか。

1-3 脱共同体
トレードはトレードのネットワークを作りだし、それが、新たに生まれたグローバルとして共同体ローカルをおびやかし、共同体の成員をジェネリックな「個」として拉致することによって、共同体を弱体化し空洞化する。

だが、その「個」は、共同体性の尾てい骨を頑固に保持している。というか、かつての共同体の規範と慣わししか、"生き方の形"を知らない。その形を維持するために、婚姻〜家族、企業、いじめ集団などの、仮想共同体を生成維持しようとする。そこに、"トレードする個"や"結婚する個"という奇妙なものができあがる(参考記事)。

難問(1)そうやってまんまと、旧い、共同体性を取り込んでしまった個が、そのコミュニケーション不能を無反省なままそっくりそのまま継承してしまうのはなぜか? それは、遺伝子がそれを引き継いでいることの結果としての、短期的な錯覚(共同体ではないのに共同体として振る舞う)、ですまされることか?

(しかし、何度も言っているように、その錯覚--個がまるで共同体として振る舞うこと--は悲劇しか生まない。たとえば、本物の共同体が行うトレードは、共同体内部にありとあらゆる緩衝材を持っていたが、多くの場合個は、緩衝材を持たない。…それを持たないことこそ、個というものの、コミュニケーション有能へ向けての、すばらしさであるのだが。)

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