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2010年11月22日 (月)

Ubuntu 10.10インストールてんまつ

ATOKに固執するのはユーザ辞書の累積があるからで、それがなければデフォルトでインストールされているAnthyで十分です(ATOKの辞書を変換できるかもしれない…調べてない)。

でUbuntu 10.10の32ビット版として「日本語Remix」バージョンをインストールしました。構成は:
・Firefoxのブックマークインポート--旧ブックマークツールバーの内容を新BmTbにコピー。
(BmTb本体の置換は、なぜかできない。)

・Adobe Reader--Ubuntuソフトウェアセンター 日本語環境から正規にインストールできる。

・Mozilla Thunderbird--日本語環境から正規にインストールできるのはなぜか英語版。Mozillaのサイトからダウンロードする。sudoを駆使して/optに置く。Ubuntuのパッケージ管理からのはみ出し者になるが、しょうがない。旧.thunderbirdディレクトリをリストアする(巨大すぎていやだが、メールの新規セットアップはたいへんすぎる)。

・Vim(gvim)--Ubuntuソフトウェアセンターで正規にインストールできる。旧.vimrc, .gvimrcをリストア。バックアップ用ディレクトリも作る。

・ATOK X3 for Linux--Just SystemサイトのFAQの指示どおりにいくつかの「対策ファイル」をダウンロード〜インストールしなければならないが、32ビットカーネルの上だととりあえずふつうに使える。

・gterm--PS1を.bashrc中で単純なものに変更(\w-->だけ)。

・DVDの再生--このページを参照。

[問題1]gtermやgvimなどの上で、バックスラッシュが円マーク文字にならない(正しくバックスラッシュになる)フォントに、適切なものをまだ見つけてない。円マーク文字は、嫌いだぁ。\\\\\\ ←Firefox上では、なぜか本文入力フォーム上でのみ、ちゃんとバックスラッシュになる。ブログ本体上では円マークになっちゃう!。

[問題2]Windows 7を使っていて[スリープ]させようとすると、スリープせず突如Windowsが不正終了して、マシンが再起動してしまう。今、日・英のUbuntuフォーラムで質問中。Win 7では、スリープに至るのアイドルタイムアウトも「なし」に指定した。不意の不正終了は怖いので。スリープなんかしなきゃいいし、今後はWindowsを使う機会もそんなに多くはないだろう。

*おっと、Ubuntu 10.10はGNUのJavaでなくSunの(Oracleのとは言いたくない)Java、すなわちOpenJDKを最初からインストールしている。すごい。私のような「Java工作人」にとっては、たいへん便利(ダウンロード、インストール、PATH設定、ぜーんぶ、やんなくていい)。

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2010年11月21日 (日)

wubiについて(続)

9月23日付けで「wubiについて」を書いたが、今回は経験談:
1)wubiのメニュー、GRUBのメニュー、(自動ログインを指定しても)ログイン画面、と毎回3段階はつらい!
2)Intel Core2 Duoマシンでは64ビットのLinuxカーネルをインストールする。これだと、ATOK X3 for Linuxをふつうに簡単にインストールできない。

で、wubiをアンインストールして、ふつうにUbuntu 10.10(有志の方々が作ったJapanese Remix*)をインストールしました。これは、ふつうの32ビットカーネルです。 *: http://www.ubuntulinux.jp/products/JA-Localized

ちなみに、Windows 7では、isoファイルをダウンロードすると勝手にCDを焼いてくれるので、新規インストールは簡単な作業で済みました。まだまだ当分はWindowsの上で仕事をしながら、徐々にLinux側の構成をしていかなければならない。今日やった作業は「ネット上にバックアップしておいたブックマークをFirefox上にインポート」のみ。明日はATOKのインストールあたりかな。しかし、最低限のやるべきことでも、けっこうたくさんあるなあ。

(旧Pentium 4マシンは、修理可能の可能性…いくつかのコンデンサを新品に取り替える!…がかすかにあるので、まだ粗大ごみにはしていない。)

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2010年11月11日 (木)

みっともない村騒ぎ(2)

愚かな戦争をしかけた愚かな国が敗戦したら、巨額賠償+領土割譲+奴隷提供が歴史の常識。アメリカが強硬に反対しなかったら、今ごろは北海道全体がソ連/ロシア領でっせ。

本当に戦争を反省し、悔い、恒久の不戦を誓うのなら、今のみっともない北方領土騒動*を、恥じるべきではないか。旧島民の(最広義の)福祉を、最優先すべきではないか。〔*: もっともっと苛酷な敗戦体験は、各所にいっぱいあるのに。〕

現状では、およそ、日本/日本人の精神的成長はない。

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みっともない村騒ぎ

事前にお役所としての機密指定と、そのことの徹底周知、およびそのためのセキュリティ措置等の行われていないファイルが*、インターネット上で公開されたことを、まるで重大犯罪のように大騒ぎする。日本の上層部は、マスメディアも含め、「太平洋の東端の小島に住む土人たち」だ。要するにこれは一種の、mob的なイジメ、村八分と同じ根性である。かつてはそうやって、"鬼畜米英"へと国民総mob化が行われたのだ。〔*: しかも、個人のプライベート情報などのように、公開されて誰かにダメージを与えるものでもない。〕,

あとは、彼の弁護士や、一部の論客、ジャーナリストなどが、今日的な(しかも強い)良識人であることを祈りたい。

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2010年11月10日 (水)

自己論のスケッチ(1-3)[書きかけ]

Je suis autre. --- Arthur Rimbaud

(1)対象物(ほぼ全世界)と、唯一の非対象物(自己)---互いにautreである。
だが、他者を対象物ではなく、another自己(他己、I & I)と理解することはできる。
●自己は神秘

(2)私は私にとって他者(autre)である。--自己は、自己が理解し自己がコントロールできるものではない。
「今日はなぜか×××を思い出すことができた」---コントロール不能な自然現象としての自己。思い出そうとして思い出せるものではない。自己の中に自己という他者(自然)が生きている。
●自己は不気味


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2010年11月 1日 (月)

自己論のスケッチ(1-2)

「自己」は、過去何千年、何万年、もしくは何十万年、共同体性の中に埋没している。もちろん、即自的に"ある"という意味では、何万年前でも、また、ヒトという哺乳類動物にかぎらず、どんなイキモノでも、その「自己」はあるわけだけど、その長い時代、ヒトのそれは自己として自覚されていない。それは埋没し、眠っている。

さて現代という時代は、トレード(~貨幣経済)のグローバル化(それに伴うコミュニケーション文化のグローバル標準化)により、ヒトを長年支えてきた共同体が崩壊~無力化しつつつあるという、人類未曾有の時代だ。

児童虐待はこの無力化の犠牲の、顕著な例である。イスラム原理主義テロリズムは、共同体とその伝統的ローカル権力の、最後の病的な悪あがきだ。依拠する旧共同体の崩壊無力化とともに、「自己」は初めて顕在化してくる。

これまで何万年、画像はくっきり刻まれていたフィルムや印画紙が、初めて現像~定着液に浸されたときのように、ヒトは今、顕在する自己になりつつある。

しかしながら、「自己」、この、宇宙の唯一最大の神秘を、まさに自己のもの、ひいては多くの個々の他己のもの(I & I & I & I ...)として自覚していない自己が、まだ圧倒的に多いと思われる。

それは、素っ裸で野に放たれた孤独な獣だ。生理的<必要>と、不安をベースとする<欲望>だけが、孤独な獣としての自己の生の動因となる。犯罪と自殺だけが純粋に自己的な行為ではない。受験競争などから始まる、多くの、『人生の功利主義』もまた。

その未開発の自己は、旧共同体の動機~行動パターンをそのまま導入する。トレード~貨幣経済(そして戦争)という、旧共同体のパターン。婚姻~結婚制度という旧共同体の”意義ある”パターン。それらを、それらがまったく似合わぬ、良くそれらがその生を支えるものではない「自己」が、ほかにまだ何もないので、生の中心に導入してしまう。「自己」が(全宇宙的に孤独な)「自己」であることの自覚~自己意識の欠如は、「自己」にふさわしい新しい良い生き方を生み出さない。

だが、ささやかながら芽生えはある、婚姻制度の破壊に関してはたとえばポリアモリーが、財のトレード~貨幣トランザクションによらぬ生産と流通に関してはたとえばLinuxオペレーティングシステムが。

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Windowsという、時代のメタファ

試しにWindowsを長期使ってみよう、が、今日で2週間とちょっとになる。

まあ、Linuxに比べて、良いと感じた部分はまったくない。

悪い部分を具体的に列挙する代わりに、ここでは重要なメタ考察を一つ述べておこう。

立ち上げ時にWindows 7は「ようこそ」とメッセージする。誰が、誰に、「ようこそ」と言っているのか?

そもそもパーソナルコンピュータは、各個人の、すなわち各「自己」の、脳や器官の延長(extension)だから、OSも、やはり自分の延長として、自分で選び、決めて、自分でインストールし、コンフィギュレーションし、自分で立ち上げ、自分で使用するものだ。どこかの馬の骨に「ようこそ」などと言われる筋合いのものではない。

というわけで、ここまでの時代は、ユーザの大半はおろか、業界の大きな部分もまた、パーソナルコンピュータ、パーソナルコンピューティングというものを、まったく正しく理解していないのだ。

どこかのビッグブラザー的主体が、ブラックボックスとしてのOSを"お客さん、消費者ユーザ"に提供する。お客様、ようこそ! その姿勢、その考え方が、Windowsの、あらゆる悪さ、アホらしさ、腹立たしさの根因である。

時代はいまだに、コンピュータに対する、根幹的な誤解に支配されている。今のインターネットが、古生代の巨大爬虫類のごとき巨大な商用サーバサイトがのさばる場と化しているのも、この「一般的な誤解」がそのベースにある。

「個」は、まだ、その主体性をフルに確立~拡張していない。パーソナルコンピュータとネットワークが、そのための道具になっていない。

さて、今週末ぐらいから、Linuxへの帰還の準備を始めようかな。

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