蝉(セミ)や蜻蛉(トンボ)の死から学ぶ
この時期になると、路上でよく蝉や蜻蛉の死んでる姿を見かける。でもそれらは、ごく自然に、たまたまそこで短い命を終えてるだけで、違和感とかかわいそうという感じはない。むしろ、道路という構造物が場違いな感じを与える。
蝉や蜻蛉にとっては、地球全体、自然全体が自分のもので、自然の中のあらゆる場所が自分の場所だから、そういう、自分の場所の一つに自分の死体を横たえているにすぎない。だから、たまたまそこがアスファルトで固められた道路上であっても、そこはその蝉の場所だから、なんにも違和感がないのだ。あらゆる場所が、自分の場所だ。自分が自分の場所で死ぬのに、文句あるめえ。
これ以上書くと、前に書いたこの記事やこの記事の繰り返しになってしまうが、人間の、自然との、全面的な和解も、このブログで追究している(まだ存在しない、真の)コミュニケーション学/コミュニケーション理論の重要テーマの一つであることは間違いない。
関連して、子どものころ読んだ、深沢七郎の小説『楢山節考』のユニーク性と偉大さに思いが至った。日本人日本社会はまだ全般として、あれの偉大さを理解するレベルに達していないね。深沢氏自身も、晩年ピーク時のビートルズの音とは違うが、"どくとくのへんなところ--異次元性"のある人で、その「へん性」の解明も、まだ誰も行っていない。書き表そうとしても、今の日本人に通ずる文章にはならない気がする。
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コメント
東京都知事が、高齢者未確認問題で「深沢七郎」取り上げました。
「偉大さ」プッシュしたいのは了解させていただきました。
上記問題は、
どうお考えでしょうか。
投稿: のろ | 2010年8月13日 (金) 00時09分
@のろ
> 東京都知事が、
これについては、存じ上げません。
しかしあのphallocentric都知事は、昔から100%バカですから、どうせまた、phalloで乱暴なことを言ったのでしょう。
#毒物の上に食品市場を建設するのだけは、絶対やめてほしいが、今の都民はあんなお粗末な男を知事に選ぶだけあって、無能無気力だね。
投稿: iwatani | 2010年8月13日 (金) 07時21分
一寸見当外れかも
だけれど、今回想起した
のは、
「生物から見た世界」
/ ユクスキュル、
クリサート 著
/ 日高敏隆・羽田節子 訳
/ 岩波文庫
です。
実際 世界が他の生き物
には、僕らと違ってある
んだ。ということが
分かりやすく読める、
夏休みの課題図書に
したい一冊です!
もっとも人にとっても
用いる言語によって
異なる事は、
岩谷氏や金谷武洋さんの
著作からも学べます!
そうですよね
simomitu
投稿: 下光博之 | 2010年8月13日 (金) 19時06分
「ぼーっと生まれてきたのだから、ぼーっと生きるのが正しい」深沢七郎
生と死の大きさが彼の中では同等なのですね。
投稿: 南 | 2010年8月16日 (月) 10時53分