世界像のリセット
世界というと、対象的世界であるという、完全に間違った世界像を、ショートしたメモリ上のデータのように、完全に「なし」にすることが重要である。
対象的世界(像)は、事実も現実もまったく捕捉していない、完全なる「世界誤解」である。
そこには、自己も忘却され、他己も忘却された、カスのようなものしかない。
対象、を、追究するな、そろそろ、ええかげん。
対象的世界は、世界ではない。
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世界というと、対象的世界であるという、完全に間違った世界像を、ショートしたメモリ上のデータのように、完全に「なし」にすることが重要である。
対象的世界(像)は、事実も現実もまったく捕捉していない、完全なる「世界誤解」である。
そこには、自己も忘却され、他己も忘却された、カスのようなものしかない。
対象、を、追究するな、そろそろ、ええかげん。
対象的世界は、世界ではない。
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南方(等)の最前線で大規模に棄民ならぬ棄兵に遭ってしまった人たちの惨状は、ものすごいものだったらしい。わずかな生き残りの一人がかつて、天皇をぱちんこで"狙撃"したことがあったが、それは殺傷能力のない武器だから、あくまでも天皇と世間に対するメッセージだったのだろう。
当時の最上位権力者が責任をとるということは、勝者側の裁判を受けて刑に服するということでは全然ない。自己の責任を認め、世界と国民に対して謝罪することだ。つまり、完全に自己の意思による自発的な行為でなければならない。
そうすると国民の側も、一人一人が自己責任を自覚できるようになる。そうして、日本人のモラールは、今のようなかなり矮小なものでなく、もっと立派なものになっていただろう。拉致も原爆もそのほかの戦争の惨事も、50%の怒り悲しみと同時に、50%は「自ら播いたタネ」の自覚を持てるはず。それが、立派なモラールのベースだ。
日本には、強力な、本物の、民主主義が育っていたかもしれない。
(ほんとうに、犠牲者をとむらうとは、そういうことでは?)
今からでも遅くない、かもしれない。美智子さんとそのダンナさんは無理でも、雅子さんとダンナさんは、そのうち、そういう問題を、深ぁく考える機会を、ふと、神様が恵んでくれるかもしれない。
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今(これまで)の、「局」とか「番組」という座敷牢に閉じこめられたテレビは、メディア(媒介、人と人のつながり)のメディア性を封殺抑圧したものであることは、すでにここやここで述べてきた。
そういう環境では、ドキュメンタリーとかジャーナリズムというものが、既製ストーリーの枠へと削られてしまう「きれいごと」に終わってしまう。現場でカメラを持ち、マイクを持ち、レコーダーなども持つ現場ジャーナリストの、アクチュアルな出会い、発見、思いがけぬ本質的な事件との遭遇、といったものが、全部捨てられた、カスのようなものを視聴者は「完成した番組」として見せられる。
今のテレビ局は、ジャーナリズムをなめてかかり、極端なまでに矮小化している。なぜなら、前にも申したとおり、今のテレビは「メディア」になっていないからだ。
本物のジャーナリズムの仕事は、けっして、「報道」ではない。人と人のつながりをより濃くし、互いにより責任あるものにすることだ。すなわち本物のジャーナリズムの仕事とは、「メディア」そのものであることだ。ジャーナリストAさんの向こうにある人びとと、こっちにいる私たちとの仲が、よりのっぴきならなくなること。これが、メディア(糊)の仕事だ。
そういう意味でこれからの時代、これからの世界においては、ジャーナリズムという仕事は、最高におもしろく有意義な仕事であるはずだ。犬死にしないよう気をつけることも、仕事の重要な一環だ。
考えてみれば、「報道」は、生産者も消費者も自己を単なる見物人の安全地帯におく、そうとう無責任でけしからん営為だ。報道の死を! 世界中で、真のジャーナリストの活躍を!
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phallocentricおバカ都知事が何を言ったか知らないし、どうでもいいけど、子ども心に「楢山節考」が感動的なのは、母親を背に負っている子の、母親への愛情が、ひしひしと伝わってくるところなんだ。
しかも、これから母親を山に捨てに行くという、特殊な空間時間に、その愛が顕在化する。
というわけで、コミュニケーション不能下等動物のトレード支配社会においては、愛は、短時間先に確実に死がある、未来として短時間先の死しかない、空間時間においてかろうじて顕在化するのだ。
トレード支配社会を破壊融解し、狭所である愛の時間空間を、全時間空間へと広域化することが、われわれの唯一の務めである。年貢が苛斂誅求でなかったり、食糧の広域贈与ネットワークがあれば、自分のおっかさんを生きたまま極寒の山へ遺棄する風習もありえない。
オトコ社会の、全破壊を!
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拙著「ぼくらに英語が分からない本当の理由」(なんちゅータイトル!)を、英語の学習用副読本として利用する人がいるらしい。
あの本は、英語と日本語における存在論の断絶を扱っているが、しかし最近気になっているのは、「社会像」の断絶だ。ひまがあれば、例をたくさんたくさんメモして、それこそ本でも出してもいいが、なにしろ最近は、英語と日本語とのあいだの『非互換性』が至るところで目立つ。逆立ちしても日本語にはならない英語も多い(結果、片仮名語が増える)。
Grouponに端を発するフラッシュマーケティングは、安易なインターネットビジネスとしてどこの国でも雨後の筍しているが、group shoppingを「共同購入」という日本語に置き換えるのがこれまたおかしい。フラッシュマーケティングでは、グループは結果的にできる複数購入者のことだが、「共同購入」という日本語は、あらかじめあるグループ、例:仲良し主婦グループなどが、共同で物を買うことを指す。それも英語で言うならgroup shoppingになってしまうかもしれないが(いや、もっと適切な英語表現があるはず)、共同購入という日本語では、フラッシュマーケティングで結果的に形成されるグループは言い表せないのだ。
この稿は簡単にすまそうと思うが、日本〜日本語の社会像は、超長年にわたる既存共同体依存性と、お上(おかみ)依存に象徴されるタテ社会が、まだまだ強固な基盤になっている。だからたとえば日本語には、共同体を超えた、純粋な個人同士をヨコにむすぶ・つなぐ言葉というものが、pathologicalに未発達だ。人体にたとえると、足はまともに発達しているが、手は赤ちゃんサイズのままの大人が、今の平均的日本人の姿としてイメージされる。
社会像の違いから、日本語で適切に意味を表せない英語も多い。
参考URL: [フレンドリーな日本語の確立と普及を]
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この時期になると、路上でよく蝉や蜻蛉の死んでる姿を見かける。でもそれらは、ごく自然に、たまたまそこで短い命を終えてるだけで、違和感とかかわいそうという感じはない。むしろ、道路という構造物が場違いな感じを与える。
蝉や蜻蛉にとっては、地球全体、自然全体が自分のもので、自然の中のあらゆる場所が自分の場所だから、そういう、自分の場所の一つに自分の死体を横たえているにすぎない。だから、たまたまそこがアスファルトで固められた道路上であっても、そこはその蝉の場所だから、なんにも違和感がないのだ。あらゆる場所が、自分の場所だ。自分が自分の場所で死ぬのに、文句あるめえ。
これ以上書くと、前に書いたこの記事やこの記事の繰り返しになってしまうが、人間の、自然との、全面的な和解も、このブログで追究している(まだ存在しない、真の)コミュニケーション学/コミュニケーション理論の重要テーマの一つであることは間違いない。
関連して、子どものころ読んだ、深沢七郎の小説『楢山節考』のユニーク性と偉大さに思いが至った。日本人日本社会はまだ全般として、あれの偉大さを理解するレベルに達していないね。深沢氏自身も、晩年ピーク時のビートルズの音とは違うが、"どくとくのへんなところ--異次元性"のある人で、その「へん性」の解明も、まだ誰も行っていない。書き表そうとしても、今の日本人に通ずる文章にはならない気がする。
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RSPCA(The Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals)というと、歴史の古い、世界的に"尊敬"されているイギリスの動物愛護団体だが、ここ10年ぐらいの凶暴犬(の遺棄犬)の急増により、2009年には533頭の健康な犬を殺したという。イギリスのそのほかの大きな愛護団体では、年間の処分犬の頭数が1000、2000のオーダーのところもある。
BBCのこのニュースによると、RSPCAの担当者は「put to sleep(永眠させる)とか、humanely euthanise(安楽死させる)といった婉曲語法は、もはや使いたくない。状況のひどさを伝えるために、率直にkill(殺す)という言葉を使いたい」と言っている。
要するに、ステータスシンボルとして闘犬のような犬を飼う人が増え、手に負えなくなって捨てる人も増えているのだ。ピット・ブルなどは、1991年のDangerous Dogs Act(危険犬法)で禁じられているが、この法律が禁じていない"怖い犬種"も多いらしい。政府のお役人は「免許制にしろという声もあるが、免許制は一度やってみて無効果だった」と言っている。
このほか、児童虐待の増加も、日本だけの現象ではない。「欧」と「米」でもよく報じられている。
ヨーロッパは消費税が高く、高負担高福祉を実践している国がすでに多い。たとえばイギリスの消費税は20%だ(食料品と子供服は非課税)。でも、福祉への政府の支出を厚くするだけでは、人類史上新しい現象と言っていい、このところの「人心の〜社会のすさみ」は解消できないようだ。昔は戦争が怖かったが、今は身の回りの社会そのものが怖くなりつつある。
政府の施策だけには期待できない。やはり、新しいモラルの確立と普及が、必要じゃないかな。その筆頭が「トレード強迫からの解放」だと思うが(そのための施策はもちろん必要だが)。
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「自己」というものは、全宇宙の中で、唯一それだけが“異質”なものである*。全宇宙のあらゆるものは、自己にとって対象物(objects)として現れ、存在するが、当の自己だけが、対象物ではない。
〔*: 最期の奴隷氏のタームとしては“唯一の深淵”となるのかもしれない。しかしこの「深淵」という概念は、このままでは、非常に分かられにくい概念にとどまってしまう。今後の多様なパラフレーズが必要だ。〕
しかしおそらく、「他者」を対象物として位置づける視界には、コミュニケーションは生成しないと思われる。他者ではなく「他己」という概念の普及が必要である。私にとってAさんはAさんという対象物ではなく、私が一個の自己であるように、またAさんも一個の…全宇宙レベルでuniqueな、かけがえのない…自己である。「他己」という言葉の意味は、“私以外の自己”である。
どうも見たところ、あらゆる生物の中で、人間のみが、「自己」というものの異質性を自覚できる生物であるようだ。しかも、各自己のレベルでそれを自覚できるだけでなく、人間の社会は、トレード強迫の普遍化に見られるように、そのネガティブなコミュニケーション本性によって、自己の異質性を“社会意識”として顕在化しがちである。社会意識のレベルでも異質性を自覚させられた自己は、往々にして犯罪や自殺に傾斜していく。
言い換えると、(少なくともこれまでの社会様態の中では)人間の自己、その絶対的異質性は、犯罪や自殺との親和性を持ちやすい。ちょっとレトリック的に言えば、少なくとも伝統的な人類社会において、自己の異質性が異質性をピュアに貫徹できるのは、犯罪や自殺においてだ。
犯罪や自殺の解消を目指す議論は、その根底にこの認識が必要ではないか。
(本稿未完)
#民主党は「雇用雇用」という念仏"すら"唱えなくなったが、オバマさんは相変わらず「ジョブジョブ」と空しい念仏を唱えている。あのなー、自己が自己の労働力のトレードに成功していない状態は、たまたま成功している状態と同じく、いや、それ以上に、人間の社会的あり方として常態(正常態)なんだってば!。人間がn人いたら、ジョブがn個なければならない、という強迫的迷妄から、いいかげん醒めろ、世界の指導者たちよ。そして犯罪や自殺に傾きやすい自己の社会的異質化を、解消していただきたい。
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