「自己論」のスケッチ(1-1)
「自己」というものは、全宇宙の中で、唯一それだけが“異質”なものである*。全宇宙のあらゆるものは、自己にとって対象物(objects)として現れ、存在するが、当の自己だけが、対象物ではない。
〔*: 最期の奴隷氏のタームとしては“唯一の深淵”となるのかもしれない。しかしこの「深淵」という概念は、このままでは、非常に分かられにくい概念にとどまってしまう。今後の多様なパラフレーズが必要だ。〕
しかしおそらく、「他者」を対象物として位置づける視界には、コミュニケーションは生成しないと思われる。他者ではなく「他己」という概念の普及が必要である。私にとってAさんはAさんという対象物ではなく、私が一個の自己であるように、またAさんも一個の…全宇宙レベルでuniqueな、かけがえのない…自己である。「他己」という言葉の意味は、“私以外の自己”である。
どうも見たところ、あらゆる生物の中で、人間のみが、「自己」というものの異質性を自覚できる生物であるようだ。しかも、各自己のレベルでそれを自覚できるだけでなく、人間の社会は、トレード強迫の普遍化に見られるように、そのネガティブなコミュニケーション本性によって、自己の異質性を“社会意識”として顕在化しがちである。社会意識のレベルでも異質性を自覚させられた自己は、往々にして犯罪や自殺に傾斜していく。
言い換えると、(少なくともこれまでの社会様態の中では)人間の自己、その絶対的異質性は、犯罪や自殺との親和性を持ちやすい。ちょっとレトリック的に言えば、少なくとも伝統的な人類社会において、自己の異質性が異質性をピュアに貫徹できるのは、犯罪や自殺においてだ。
犯罪や自殺の解消を目指す議論は、その根底にこの認識が必要ではないか。
(本稿未完)
#民主党は「雇用雇用」という念仏"すら"唱えなくなったが、オバマさんは相変わらず「ジョブジョブ」と空しい念仏を唱えている。あのなー、自己が自己の労働力のトレードに成功していない状態は、たまたま成功している状態と同じく、いや、それ以上に、人間の社会的あり方として常態(正常態)なんだってば!。人間がn人いたら、ジョブがn個なければならない、という強迫的迷妄から、いいかげん醒めろ、世界の指導者たちよ。そして犯罪や自殺に傾きやすい自己の社会的異質化を、解消していただきたい。
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コメント
あの、どこへ言っても「今、ここしか無い」というのは自分は自己意識は自分の中にしか居られないということです。
人間は孤独な島宇宙ではないでしょうか?。
また叱られるかもしれませんが。
投稿: 南 | 2010年8月 2日 (月) 08時53分
@南
> 人間は孤独な島宇宙
それはいいんだけど、島の回りには海とかほかの島とかあるからなぁ。
この時期、蝉がいっぱい鳴いてる。蝉が戦争も犯罪も自殺もしないのは、蝉社会の自然調整が、とっくに安定域に達してるからだろうね(人間より進化の歴史がはるかに長いはず)。
投稿: iwatani | 2010年8月 2日 (月) 11時52分
今回は僕のことを事例
として書いてみます
1 異質ってこと
昨年から地域の夏祭の
パレードと言うか
笛やら鐘やら太鼓やらの
後ろのその他大勢で
小さい太鼓を叩きながら
舞う、職場のチームに
誘われて参加してます
動機は岩谷さんの文に
地元の太鼓をやれと
いうのがあったな
というのと
人が足りんのだろうな
実験してみるか。
個人としてはロック聴き
ですから部屋で uffie
でも聴いていた方が
ハッピーなのです
仕事終えてからの練習
は疲れるし・・・
が
周りの反応は良くなって
あまり話したことない人
まで、声かけてくれたり
きっと
下光さんもこの街に
溶けこんできた
つまり
同質視されてきた
のでしょう
こんな過程を経ないでも
親切にしてくれたら
それで良かったのに
2 トレード強迫
職場の寮に住んでいます
寮は事務所のまん前です
山の中の施設なので
この時季の夜は森中から
虫さん達が大挙して
来られます。
朝には階段から踊場から
たいへんな事もあります
一応掃除当番もあります
が
そういうことの常として
あまり現実的に機能しま
せん。
休みの日に自主的に
階段を掃いたりすること
三ヶ月
先日昼寝をしていたら
事務長訪問
いただきものだけど
いつも綺麗にしてて
くれてありがとう
と業務用台所洗剤一箱
をくれました
私は自分が快適に
暮らしたい、だけ
周りからはたいへんそう
に見えたのか
贈与経済と言えなくも
ないか・・・?
以上、関連してそうに
思ったので
simomitu
投稿: 下光博之 | 2010年8月 2日 (月) 23時51分
@下光
なかなか良い職場のようですね。民間福祉施設の職員が、そうやって、地域にとけこむことは、非常に重要でしょう。「孤立」がいちばんこわいですね。
可能なら、収容者も徐々に地域行事に参加できると、モアベターかもしれない。
投稿: iwatani | 2010年8月 3日 (火) 09時16分
iwatani>全宇宙のあらゆるものは、自己にとって対象物(objects)として現れ、存在するが、当の自己だけが、対象物ではない。
iwatani>「他己」という言葉の意味は、“私以外の自己”である。
1970年代末、当時の音楽シーンを席巻していたレゲエ・ミュージックの歌詞で使われていたジャマイカ英語(というかRastafari語)での、「一人称単数を目的語(=object)とする場合、目的格(=objective)である "me" ではなく主格の "I"を使う」および「"we (us)" や "you and I (me)"ではなく "I and I" を使う」という驚愕のしかしとても理にかなった文法規則(?)を思い出しました。
iwatani>私にとってAさんはAさんという対象物ではなく、私が一個の自己であるように、またAさんも一個の…全宇宙レベルでuniqueな、かけがえのない…自己である。
うう、現状では、このような対象物となり得ない自己(I)の「かけがえのなさ」、特異性/唯一性(uniqueness)、交換不可能性もまた、「深淵」という概念と同じく非常に「分かられにくい」ように思います。
逆に、現時点で、非常に「分かりやすい」、賞揚すべきものとして一般に捉えられている自己や他者(わたしやあなた)の唯一性とは、例えば花屋の店先に並べられている植物が持っているDNAの一意性になぞらえて語られる、「実在する物理的客体としての自己」のそれです。しかし、この場合、個々のDNAの一意性を保証しているのは、結局は数字(自然数)の有限の並びでしかありません。人間が創り出した徹頭徹尾人工的な概念に他ならない「正の整数」が、誤って「自然な数」(natural number)と呼ばれている理由は、それが持つ属性としての「分かりやすさ」にあると思われます。自然数とは、誰もが理解できて当然な数であり、誰にとっても自明な数であり、まるで天から与えられた自然物のように、何人たりともその存在理由や通用の根拠を疑い得ない、盤石で確実なる基盤の上に築かれた揺らぐことのないシステムであるかのようです。それは、まるで「岩」(rock)だ。
当ブログの過去記事「小学生のための貨幣論入門」というタイトルに大いに触発されて、貨幣(お金)って一体なんだろう?という素朴な疑問に関する答えを模索していますが、考察を開始した早々、「貨幣=(イコール)自然数」すなわち「お金とは自然数であり、この世のあらゆる事物の価値を表すのに使われている」というシンドイ命題にぶち当たってしまいました。
「自己」が貨幣=自然数によってあまりにも簡単に数値化されていること、そしてこのような自己の数値化・数量化、「数えられないもの、数えてはいけないものを数える」という暴挙に対して誰も異議を唱えない(唱えたくても唱えられない)でいること。この人間として屈辱的な状況に耐え、何とか正気であり続けるために、人は貨幣(お金)に関する逆説的で自虐的でシニシズム的な引きつった笑いを必要とするのではないかと思えてきました。この状況を打破するには、「自然数」と呼ばれているこの語義矛盾の最たるものを、シンドイながらもコツコツと脱構築して行くしかなさそうです。
というわけで、「小学生のための貨幣論入門」は、「小学生のためのメタ数学入門」とセットで書かれなければならない、と気付いたということをご報告しておきます。
投稿: kawabata | 2010年8月 3日 (火) 16時59分
@kawabata
そうそう! レゲエ、「I and I」がありましたなぁ! いいものを、思い出させていただきました、ほんまに感謝!
今でもたまに、ものすごくクソ暑い夕方など、からだがレゲエを欲することがあります。これなんか、なんと1500万回以上も視聴されています(音だけでなく、マーリーの繊細な表情が良いせいでしょう)。
しかし「I and I」も、今や分かられにくい概念のトップクラスかも。
神が作りたもうた"自然"数、という最強の迷信の打破も、分かられるための語り口が難しい、と感じております。
投稿: iwatani | 2010年8月 3日 (火) 19時01分
進化と言えば、岩谷さんが日本のロックなんてナンセンスだと否定してましたね。僕も同感でしたが、日本のロックもだいぶ進化し有能化し、良くなったと思うんだよね、昔の醜い日本のロックと比較すると。
投稿: bad | 2010年8月 4日 (水) 01時17分
@bad
> 日本のロックもだいぶ進化し
そろそろ、「日本の」というかっこわるい冠を外さないと、かっこわるいよ。
Blacbox Revelationを、いちいち、"ベルギーの"ロックという人いないもの。
投稿: iwatani | 2010年8月 5日 (木) 09時35分
レゲエと言えば、steel pulseのearth crisisのライブが、ゆーちゅーぶにあるけど、鬼気せまってて凄いです。です。
投稿: bad | 2010年8月17日 (火) 21時51分
@bad
Steel Pulseは、その名前のとおり、良い音でした。YouTubeで検索すると3980件もあります。その、鬼気せまるライブの、URLが分かったら教えてください。
投稿: iwatani | 2010年8月18日 (水) 09時08分
steel pulse earth liveで、youTubeを検索して下さい。凄くないかもしれませんが。
投稿: bad | 2010年8月18日 (水) 15時51分
@iwatani
>人間がn人いたら、ジョブがn個なければならない、という強迫的迷妄
何度か前にもトレード強迫というレスを読んでいましたが、これを読んで突然リアルにそのバカバカしさ、無意味さを掴むことができました。働き手が100人いたとしても、働き口が常時100個揃っている社会なんてあるわけがない。必要とされる働き口なんて、労働者の数とは全くの無関係である。労働人数と関連性があるわけがない。全くの当然として、100人いようが60の時もあるし、150の時もあるだろう。考えるべきことは、必要数から溢れた人や不足する人を特別視しない社会のシステム造り。(不足の場合に備えての余剰人数というのも必要なのだ。)
やはり、必ず職に就いて賃金をもらわなければ生きていけない社会なんてマトモではないのである。権力者に都合の良い社会だけである。生きていくことに不親切・無茶苦茶である。そして進めるべきは、休職中であっても「早く次の人と代わって、また働きに出たい」と思わせる社会の雰囲気づくりや、学習の充実ではなかろうか。
「なんでもいいから、職に就かなくては。」という強迫観念を取り払って(卑小化される事なく)、落ち着いて冷静に、必要とされる職種に人が着任できるシステムがなぁ~。
投稿: ohiya | 2015年2月25日 (水) 23時09分
[変更]
権力者に都合の良い社会だけである。
→権力者が我々を支配するために、仕向けているだけである。
投稿: ohiya | 2015年2月26日 (木) 07時07分
ジョブジョブと連呼して、いかにも「ジョブにありつくことが大事である。ありつけないと、・・・」的に国民を不安に駆り立てているようではないか。そうやって追い詰めていくのが支配者の常套手段ではないかいな。
「地方創生」ということで、いかにも人為的に雇用を創り出しても本当に必要とし継続していくものでないと、単に一発の花火になろうものなら無意味であるし後々に負担が残るだけである。それよりも抜本的に、非就職者・無職者であっても社会的に異質化させない認識・努力が必要では。勤めていなくても同じ生活仲間として認める。後ろめたく思わない。→「なんだ、それなら俺も働かなくていいんだ。」と思うような低レベルな人には育てない。
やはり、労働や共生ということに関してパラダイス(!)シフトが必要では。そのためには、やっぱり貨幣というのが障害物である。
投稿: ohiya | 2015年2月27日 (金) 05時25分
@kawabata
>それは、まるで「岩」(rock)だ。
ある曲を思い出しました。
MATUMBIのズバリ“Rock”であります。
詳しくは忘れたけど、超名曲です。歌詞は、
Rock Rock Don't You Fall On I.
Rock Rock Don't You Fall On I.
というものでした。youtubeにもアップ
されていたので、興味があれば。
投稿: ohiya | 2015年4月 7日 (火) 02時37分
@ohiya
> MATUMBIのズバリ“Rock”であります。
ども、ご無沙汰してます、kawabataです。私は、この曲が収録されているMatumbiのアルバム"Seven seals"(邦題『7つの封印』)は、その比類のないディープな歌詞とサウンド構築により、レゲエ史上(てゆうかもう音楽史上)最高の作品やと思っております。この曲の歌詞を確認するために"matumbi Rock lyrics"で検索してみたのですが、残念ながらWeb上では不完全なものしか見つかりませんでした。幸い手持ちの日本版LPに付属のライナーには英語歌詞(オリジナル版のLPインナースリーブに記載されていたもの?)が掲載されていたので、この曲の歌詞(一部省略)を、僭越ながら私のハンドメイド訳詞と共に以下にご紹介いたします。皆様のご批判ご感想頂ければ幸甚です。なお、同ライナーに掲載されていた日本語訳は例によって滅茶苦茶やったす。
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岩よ、揺れよ
だが我(I)には落ちるな
岩よ、揺れよ
揺れて転がり落ちよ
だが我の上には落ちるな
おお、岩よ
揺れて崩れ落ちよ
だが我の上には落ちてくれるな
Rock, rock, don't you fall on I
Rock, rock, don't you fall on I
Oh Rock
Don't you fall on I
父なる神が生命の書を紐解くために
七つの封印を開くことを決めたとき
地上のすべての邪悪者よ
警告を受け入れるがよい
なぜなら我と我(I&I)の予言がすべて現実となるからだ
When the Father decides to open
Open up the book of life
And to loose those seven seals
All wicked men on earth take warning
For what I and I say is real
岩よ、圧制者(という名の岩)よ、揺れよ
だが我には落ちるな
岩よ、圧制者(という名の岩)よ、揺れよ
揺れて転がり落ちよ
だが我の上には落ちるな
おお、岩よ
揺れて崩れ落ちよ
だが我の上には落ちてくれるな
Say you can rock, but don't you fall on I
Yes, you can rock, but don't you fall on I
Rock, oppressor rock, but don't you fall on I
Rock, oppressor rock, but don't you fall on I
Oh rock
But don't you fall on I
今まさにこの地上に存在する
アフリカの圧制者たちよ
直ちに我が人民を解放せよ
そして特にソウェトの圧制者たちよ
直ちに我が人民を解放せよ
Oppressor down there
Down there in Africa
Let my people go
Especially down in Soweto I say
Set my people free
おお、岩よ、どうかやめてくれ
おお、岩よ、私の上には落ちないでくれ
どうかそれだけはやめてくれ
おお、岩よ、なぜお前は私の上に落ちようとするのか
Oh rock, you shouldn't do that
Oh rock, don't you fall on I
should never do that
Why you fall on I
汝、彼揺るるを許さば、必ずや彼、汝の上に落ちんとす
汝、彼揺るるを許さば、必ずや彼、汝の上に落ちんとす
彼揺るるを許すべからず
彼揺るるを許すべからず
If you low im fi rock, im will fall on you*
If you low im fi rock, im will fall on you*
Do no low im fi rock, no low im fi rock*
岩よ、揺れよ
岩よ、揺れよ
Rock, rock
Rock, rock
--------------------------------------------------------
*Note: These lines are written in Patois (Jamaican Creole). In normal English, these lines should read as "If you allow him to rock, he will fall on you. Do not allow him to rock, don't allow him to rock." For more info about those words of Patois such as "low", "im" and "fe", see Rasta/Patois Dictionary.
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私の誤訳/誤解でなければ、この歌詞の中では、どうやら「岩(rock)」は「荒ぶる自然(==神)」を表しているだけでなく、「圧制者/迫害者(oppressor)」をも表しているようです。で、歌詞の上での話者は、そのような「岩」に対して語りかけている。多くのレゲエの歌詞と同様、この歌詞でも、一筋縄では行かない不気味なフレーズが最後に挿入されています。
ところで、私の約5年前の本スレッドへのコメントでは、タレスの時代から現代に至るまで人類のヘッド&ハートを強力に抑圧している「(自然)数」ないし「数学」(およびそれらが無批判的に受け入れられている頽落状態)のことを、「岩」(or「岩盤」)と呼んでいます。
「(自然)数」や「数学」という名の「自己の外部に自己体験や感覚を超えて存在しあらゆる事象に対して無条件に適用可能とされている」あたかも自然物であるかのような「岩」を脱構築しようという試みは、一見したところ余りにも無謀かと思われますが、意外にも同様の試みがかつて「時間と主体(自己)」というテーマの下に果敢に試行されていた時代があることを最近になって発見しました。『時と永遠』より以下に引用します。
----------------以下引用----------------------------------------
吾々は日常生活においてすでに、世界のすべての事物・存在及び動作を支配する一種の秩序の如きものとして、又それに屬することによつて吾々の認識が萬人に共通なる尺度と法則とを得るものとして、時を表象し理解する。しかしながらかくの如きは決して時の根源的の姿ではない。それは、われわれ自らその中にあつて生きる所のものを、われわれの前に置き外(そと)の世界に投射して客體化したものであつて、すでに反省の作用によつて著しく變貌を遂げた派生的形象である。時の根源的の姿を見ようとする者は、一應かかる表象を全く途に置き棄てて根源的體驗の世界に進み入らねばならぬ。尤も體驗の理解は反省において行はれねばならぬ故、その際反省の産物である客觀的時間の姿は、吾々の視野を遮り目的物を蔽ひ隱し、かくて、すでにアウグスティヌス(Augustinus)も歎いた如く、吾々の仕事を甚しく困難ならしめる傾きがある。さもあれ體驗的時間の眞の姿を明かにすることは吾々にとつて最も肝要なる基本的課題である。
-----------------引用ここまで---------------------------------------
なお、同書にはベルクソンの時間論に対する批判も含まれており、数(学)を「岩盤」的な存在へと祭り上げてしまう主たる動機は、「他者への生に沒頭する本來の態度を置き棄て、自己の姿を自覺の鏡に寫さう」とする立場への執着に他ならないというスルドイ批判も示されています。
数学や物理学が採用している(無限)分割や計測が可能な時間とは、「私」というこの徹頭徹尾具体的な「自己」が体験するユニークな感覚に先だって実在するものではないこと、また、一切の尺度を超えているために分割や計測が原理的に不可能である「私の時間」こそが「私」のユニークさの源泉であり、そのような真に良き時間を持つこと(to have a really good time)が「その人がその人当人である根拠」に他ならないということを改めて確信した次第です。そして、このような真理を、それがたとえ亀のようにのろい歩みであったとしても、より論理的に、より誰もが納得できる形で、より広く社会的に認識させていく必要があると改めて感じました。
以上、長文のコメント、大変失礼しました。
投稿: kawabata | 2015年4月 7日 (火) 23時10分
いやいやいや、スゴイ、kawabata,キタ━(゚∀゚)━!
という感じですかね。
Rockの訳詩、面白かったです。ためになりました。以前kawabataさんのブログにも行って、Life On MarsやStrawberry Fields Foreverの訳詩とかも見せてもらいました。
自分が逆立ちしても書けないようなものでした。
『時と永遠』は、難しい且つ長すぎて付いていけません。ただ、
>「他者への生に沒頭する本來の態度を置き棄て、自己の姿を自覺の鏡に寫さう」とする立場への執着
とは具体的にどういうことか教えてもらえれば、ありがたいのですが。
投稿: ohiya | 2015年4月 8日 (水) 02時20分
なんというか、三無主義とは無責任でなく、無感動だったような。
訳詩ですけど、最後の部分
汝、彼の暴威を許すなれば、彼、汝に降りかかる
圧政者、暴れろ 暴れろ
が並列に歌われているということは、作者にとってyouを愛すべき者として見ていない事なのでしょうか。つながりが見えにくいのですが。
I & Iはそういう範囲の中には、居たくないという表明でしょうか。
投稿: ohiya | 2015年4月 8日 (水) 07時59分
@ohiya
> つながりが見えにくい
本歌詞のベースとなっている『ヨハネの黙示録』には、「生命の書」を封じている7つの封印が解かれると、全世界に激烈な天変地異が繰り返し発生し、その結果善人も悪人も含めて非常に多くの人間が死ぬが、最終的には「生命の書」に名前が書き込まれている者だけが生き残り、その者たちだけが永遠の生命を得ることができる、というような記述(正確ではない)があるようです。
この曲では、まず「岩よ、揺れよ」という無生物(==岩)への呼びかけがあり、そしてそのような呼びかけに呼応する形で天変地異(おそらくは地震)が生じ、それによってお前(==岩)が揺れて崩れ落ちたとしても、「どうか我(I)の上には降りかからないでくれ」という祈りのフレーズが繰り返されます。この部分は通常の英語で歌われます。
その後、「汝、彼揺るるを許さば、必ずや彼、汝の上に落ちんとす/彼揺るるを許すべからず」というフレーズが挿入され、このフレーズのみがパトワ(ジャマイカ英語)で歌われます。なので、この部分では歌詞の上での話者が交代しているとも解釈できます。このフレーズ、私にはジャマイカ出身の古老(賢者)がぼそっと語る、ハルマゲドンの到来を待望しているが自分だけは生き延びようとしている若者に冷水を浴びせるような、そんな不気味な助言(苦言?)のように聴こえます。
たとえば、ちょっと冗談めかして大阪弁で言うなら、「ちょっとアンタ、岩が揺れても自分の上には落ちるなとか、そんな虫のいいことゆうてはりますけど、岩が揺れてエエのんなら、そらアンタのドタマの上にも岩ガンガン落ちてきまっせ。そやろ?そやったら岩揺らしたらアカンがな」とかいうような冷静なツッコミのようにも感じられます。
この曲がフェードアウトする直前に、再度このパトワによるフレーズが現れますが、それ以降は"Rock, Rock"というチャントが繰り返されるのみで"don't you fall on I"というフレーズは出てきません。なので、この最後のチャント部分の訳だけは「岩よ、揺れよ」ではなく「岩よ、岩よ」とした方が良かったかも。
投稿: kawabata | 2015年4月 9日 (木) 11時50分
@ohiya
>>「他者への生に沒頭する本來の態度を置き棄て、自己の姿を自覺の鏡に寫さう」とする立場への執着とは具体的にどういうことか
例1:金(かね、きん)への執着、貨幣愛(love of money)。似たようなので、最近じゃ「素数愛」ってのもあるらしい。
例2:集合論で無限集合(自然数など)を定義する際に数学者が取りがちな「自己への無関心」(自己とは何か?を決して問うことがない)。または量子力学の観測問題を解決するためにフォン・ノイマンが導入した抽象的自我という概念。どこで読んだか忘れましたが、ある数学者は、幼少時に合わせ鏡を覗き込んだときに、そこに見えた「無限の奥行き」(実際には無限ではないが)に魅了されたことが、自分が数学にのめり込むきっかけとなったと語っていました。
例3:シジュウカラという鳥は鏡に写った自分の姿を攻撃する習性がある。
例4:「我らには明日はなく、今日もない、我らが分かち合えるものは過去以外には何もない」と世の中を嘆きつつ、毎日ネットオークションで古いレコードの収集に精を出している人(俺かよ!)。
合わせ鏡に写った自らの像に酔い痴れている人に対しては、「喝!」と冷水を浴びせてやる必要があるでしょう。あるいは、上記の「例4」のような鏡の世界の中で愛を探している人に対しては、「ねぇ君、気の毒だけど、そこで愛を見つけるのは無理だよ」と優しく忠告してやるとか。
>『時と永遠』は、難しい且つ長すぎて付いていけません。
本書は、発表されたのが1943(昭和18)年なので、当然、旧字・旧仮名表記であり、しかも文体は硬直した旧制大學の哲學調であり非常に読みにくいです。私も辞書引きながら読んでいます(まだ全部読めていない)。
しかし引用した部分には、何かココロにひっかかるものがあったのでご紹介しました。本書を鑑賞的ではなく批判的・批評的に読むことで何か得るものがあったらまたご報告します。
投稿: kawabata | 2015年4月 9日 (木) 11時58分
ふ~む。外部性のような定理を、岩盤へ祭り上げるとは、「他者へ正しく関わろうとせずに、間違った偏狭な自己愛に執着すること」によってひき殺される、ではなく、引き起こされるということでしょうか。
或いは、「本来あるべき正しい関係性に着目していない」ためにひき殺されるではなく、引き起こされるということなのでしょうか。「他者によって初めて自己の存在価値は見えてくる。」(例.コップとコップを使用する他者)
丁寧な長文レス、ありがとうございました。
投稿: ohiya | 2015年4月10日 (金) 04時36分
合わせ鏡と「素数愛」に関する補足。
合わせ鏡の魔力とは、自分の後頭部を自分で見たいという欲望、他人から見た自分を自分の目で見たいという欲望、「自分が他人からどう見えるか」を、他人に聞かず(==他者を経由せず)に、自分の力だけで知りたいという欲望が作り出した妄執に他ならない。
で、素数とは「1と"その数"でしか割り切れない2以上の整数」のことである。
だが「その数」とは、「その数」を特定するまで分からない数のことだから、「その数」を前もって表すことができないのは当然のことだ。
だから、「すべての素数を知りたい」という欲望は、「自分が他人からどう見えるか」を、他人に聞かず(==他者を経由せず)に、自分の力だけで知りたいという欲望と同じだ。
So I turned myself to face me
But I've never caught a glimpse
Of how the others must see the faker
I'm much too fast to take that test
そこで私は自分自身と正面から向き合うことにした
だが私は今もって、他人がこのイカサマ師をどのように見ているかについて垣間見たことすらない
私はあまりにも素早く移動する(==じっとしていない)ために、そのようなテストを受ける(==テストの対象となる)ことができないのだ
投稿: kawabata | 2015年4月12日 (日) 08時56分
なんか大昔に読んだ「牙の紋章」(真崎 守)という漫画に出てくる試練(?)で“闇縛り”というのを、思い出しました。素数愛なんて自分には皆目分からない感覚ですね。10日だったか1ヶ月だったか、真っ暗な牢屋みたいな所に閉じ込められて過ごすというやつなんですけど、出てきた主人公は悟ったような腑抜けになったような、気持ち悪い顔になつていました。他者を経由せずに自分をつかむ・つかみたいというのは、かなりの不自然さ、偏執さがただよう気がしますね。
「祭りあげる」
「祭り」というのを漢和辞典で調べると、「肉を手に持つさま。のち示を加えて、神に生贄の肉をささげる、ひいて“まつる”の意」とあります。「政(まつりごと)」も同じ意味で(祭政一致)政治(世を治める)とは「祭り事」であったのです。なにを言いたいかというと昔の政治とは、オトコによる“上へ上へのコミュニケーション”だったということ。それは、殺るか殺られるかの状況で、圧倒的に武力がものを言う政治であり、現在もそれは本質的に変わってないんじゃないかということでした。カネと武器による、君臨欲として。
投稿: ohiya | 2015年4月13日 (月) 02時40分
だってどう見ても考えても、“愛”を根本に置いた社会じゃないよな~。みんな自分の周りのことで精一杯という感じ。上層部はいかに自分の力を伸ばしていくかに夢中だし。
投稿: ohiya | 2015年4月14日 (火) 23時00分