ビートルズ晩年の成長(続)
これは、最期(最後?)の奴隷さんのブログ記事「ジョンという男」へのコメントにもなると思うが、その記事で"窒息感"と呼ばれているものは、私流のタームとしては"毒物の蓄積"である。毒の名は、ステージ/オーディエンス構造、またの名、スターという名の商品化だ。
前の「ビートルズ晩年の成長」で指摘した"晩年"と、その後のソロアルバム時代は、ジョンにとっては明らかに、たまりにたまった毒の"解毒"を意思し実行した期間だ。<スター>から<単なる個>への解毒だ。この過程に、"反アートのアーチスト"ヨーコさんが果たした役割も、まるで神が設けた奇遇のように大きかった。
だが、もっと大きな、もっと本質的な奇遇は、われわれオーディエンスの側が、そのおそらく99.9%が、自己をちっとも上記の〜〜構造という名の毒から、解毒しなかったことの顕現だ。そのあまりに象徴的顕現(ファンによる暗殺)があったにも関わらず、おそらく今に至るまで、オーディエンス側の大規模な解毒は行われていない。昨日もドイツのロックフェス(なつかしい言葉!)で、多くの死者が出たりした。
それは、しかし、必ずしも、オーディエンス側が悪いとか、アホである、という事態ではない。ひとことで言えば、オーディエンス側は、いまだに、普遍的で強力な解毒手段を持っていないのだ。一人一人が、昔ながらの、相も変わらぬ、トレード(商品、貨幣、…)万能社会に絡め取られてしまっている、力なき「孤独者」だ。
個への回帰がスター側の解毒なら、われわれオーディエンス側の解毒とは、これまでマエ(==ステージ方向)を見ていた目…まわりにいる人びとなんかどーでもよくて…を、ヨコに向けることにほかならない。
そういう意味で、オーディエンス側、オーディエンスであった者の側には、まだまだ、手つかずの、やらねばならぬことが山のようにある。power to the peopleも、imagine there's no religionも、悲しいかな、今もまだ、耳と心に残るメッセージの言葉でしかなく、実効へ向けて大きく動き出してはいない。そういう意味では、われわれは今、それぞれ孤独者としての、「取り残された者」になってしまっている。
だからこそ、明日からの課題は、とてつもなく大きい。インターネットを真のメディウム(人と人をヨコにつなぐ媒介)にすることも、含め。
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