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2010年7月26日 (月)

ビートルズ晩年の成長(続)

これは、最期(最後?)の奴隷さんのブログ記事「ジョンという男」へのコメントにもなると思うが、その記事で"窒息感"と呼ばれているものは、私流のタームとしては"毒物の蓄積"である。毒の名は、ステージ/オーディエンス構造、またの名、スターという名の商品化だ。

前の「ビートルズ晩年の成長」で指摘した"晩年"と、その後のソロアルバム時代は、ジョンにとっては明らかに、たまりにたまった毒の"解毒"を意思し実行した期間だ。<スター>から<単なる個>への解毒だ。この過程に、"反アートのアーチスト"ヨーコさんが果たした役割も、まるで神が設けた奇遇のように大きかった。

だが、もっと大きな、もっと本質的な奇遇は、われわれオーディエンスの側が、そのおそらく99.9%が、自己をちっとも上記の〜〜構造という名の毒から、解毒しなかったことの顕現だ。そのあまりに象徴的顕現(ファンによる暗殺)があったにも関わらず、おそらく今に至るまで、オーディエンス側の大規模な解毒は行われていない。昨日もドイツのロックフェス(なつかしい言葉!)で、多くの死者が出たりした。

それは、しかし、必ずしも、オーディエンス側が悪いとか、アホである、という事態ではない。ひとことで言えば、オーディエンス側は、いまだに、普遍的で強力な解毒手段を持っていないのだ。一人一人が、昔ながらの、相も変わらぬ、トレード(商品、貨幣、…)万能社会に絡め取られてしまっている、力なき「孤独者」だ。

個への回帰がスター側の解毒なら、われわれオーディエンス側の解毒とは、これまでマエ(==ステージ方向)を見ていた目…まわりにいる人びとなんかどーでもよくて…を、ヨコに向けることにほかならない。

そういう意味で、オーディエンス側、オーディエンスであった者の側には、まだまだ、手つかずの、やらねばならぬことが山のようにある。power to the peopleも、imagine there's no religionも、悲しいかな、今もまだ、耳と心に残るメッセージの言葉でしかなく、実効へ向けて大きく動き出してはいない。そういう意味では、われわれは今、それぞれ孤独者としての、「取り残された者」になってしまっている。

だからこそ、明日からの課題は、とてつもなく大きい。インターネットを真のメディウム(人と人をヨコにつなぐ媒介)にすることも、含め。

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Java plugin for Linux on Firefox 3.x

Firefoxの最新バージョン(3.6.8)でも、about:pluginsで表示されるリンク先のページには、Java plugin for Linuxのインストール方法として、古い方法が書いてある。

FF3以降に関しては、まずこれを読んでから、そこにリンクのあるここを読むべきなのである。

(最新のJREをローカル==ユーザディレクトリにダウンロードしたほうが便利。)

ものすごく久々に、Java appletを使っているページに遭遇したので、上記の件で、午前中いっぱいあせりまくってしまった!

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2010年7月22日 (木)

The Big Lie, Big Wrath

SamasourceCloudCrowdなどは、グローバルなワークシェアリングの推進という点でインターネットのもっとも偉大な利用形態の一つだが、副産物として、やがて、これまでの大量の声なき声が、大量の声ある声になってくることの効果が、すさまじく大きい。西欧の資本主義/商業主義/消費者主義文化(The Big Lie!)は、今のまったく効果のないテロ活動すら封じ込められないでいるが、その、グローバルに、津波のように押し寄せるものによって、やっと変貌を余儀なくされるだろう。

今のTwitterの上は、「世はなべて事もなし」連中…問題意識というものを欠く連中…のひ弱なおしゃべりばかりで、くだらないを通り越して、胸くそ悪い(彼らは、WTCの次ぐらいにTwitterを破壊したいかもしれない)。Twitterのアーキテクチャが、大量の声ある声の津波を適正にハンドリングできないことは、今すでに明らかである。

参考URL: 資本主義と利益追求企業の方向転換。ロック音楽の魅力は、あの破壊的な音と、重要なメッセージの数々だった。それらのメッセージの最重要のキーワードの一つがlieだったと思うが、それを破壊し消し去る、暴力ではない方法が、グローバルネットワーク上の「声ある声」から育つ、と私は予感する。

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2010年7月18日 (日)

ビートルズ晩年の成長

ビートルズのアルバムは比較的少ない:

* Please Please Me (1963)
* With The Beatles (1963)
* A Hard Day's Night (1964)
* Beatles for Sale (1964)
* Help! (1965)
* Rubber Soul (1965)
* Revolver (1966)
* Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band (1967) -- June
* Magical Mystery Tour (1967) -- Nov.(US), Dec.(UK ... EP)
* The Beatles (aka White Album) (1968)
* Yellow Submarine (1969)
* Abbey Road (1969)
* Let It Be (1970)

この内、作品(表現)としてのピークは、Sgt. Pepper'sとMMTの"兄弟"だ。このあたりの、片足が異次元に踏み込んでしまってるようなビートルズを、作品の質と互角に論じ(語り)きった語り部書き部は、この私も含め、まだ一人も存在しないのである。また、これまでの"時代"が、そんなことにふさわしい時代ではなかった。ただただ薄っぺらでアホっぽく騒々しくて。しかしこれからはどうか…。

しかし今回書こうと思ったのは、White Album以降、Abbey ..., Let IT ...,と続く3枚(or 4枚)における、表現の大変貌だ。それらは、もはや作品というものではなく、オーディエンスに対する直接的なコミュニケーションになっている。すなわち彼ら自身で、ステージの終焉という、人類社会の新しい存在フェーズを、その準備を、開始してるかのようなのだ。

Yellow Submarineは少々特殊なので、無視。

この件もまた、しっかり捉えてしっかり伝えた語り部書き部は、まだ一人も存在しないのである。この私の記事が、その第一歩だが、一般社会的にはこれからどうなるか…。

--本稿未完--
[この記事の続編]

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2010年7月11日 (日)

Ubuntu生活ほぼ半年近く

昨年終わりごろから、今年の初めにかけて、さまざまな(主にハードウェア方面の)トラブルに見舞われ、結果的に2009/11-12, 2010/01-02のメールアーカイブを完全に失うという大きなダメージを受けた(原因は私の油断〜怠慢も大きいが)。今の私のメイン機は2001年7月のBTO機だが、慢性金欠もあり、最新機種に買い換える気はない。今回のトラブル対策の結果も含めて、CPUは1.7Ghz、メモリ1.5Gb、HDは160Gb(3台目)、光学ドライブは3台目、FDDは2台目と、まだまだ捨てたもんじゃない。(電源装置の換えがまだYahooオークションなどでも見つからない。)

長年のRed Hat/Fedoraユーザだったが(使い慣れているという消極的な理由しかない)、ここでお払い(厄払い)の意味でUbuntu(9.10 - Karmic Koala)を使ってみることにした。

・移行の最大の難関は、Red HatとDebian、両ディストリビューションの「文化の違い」だ。
・でも、Ubuntuの最大にすばらしいところは、フォーラムの反応が早くて、みなさんとても親切かつ適切であることだ。

以下、(主にUbuntu forumで)私が得た「指導」のリストを掲げておこう。これからUbuntuに移行する人にも、参考になるだろう。

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2010年7月 4日 (日)

安保?まじで?

日本人の多くが、戦争はいやだと思っている。1940年代をおぼえている人は、“二度と”いやだと思っている。

でも、ぼくはちょっと違う。ぼくは、“今後戦争にならないような日本国の運転をしていくべきだ”と思っているし、願っている。

世界の主な国や勢力から見て、「日本とは戦争できない」という条件や状況を作り出し、そういう条件や状況の、コンスタントなメンテナンス(磨き上げ、強化)を維持すること。

軍事や軍備は、そういう条件や状況の核にはなりえない。むしろ、場合によっては、ネガティブ要因になりえる。

そこで、今と近未来にとって心配なのが、日米安保だ。あんなもんに今後もずっとしがみついていて、やばくない? ある意味、そろそろ、アメリカというカルチャーを、相対化する努力が必要ちゃう?(学ぶべき部分がもうない、と言うつもりはないが)。

戦争に巻き込まれないための日本国の安全運転。そのために、多方向コミュニケーションの見直しと活発化の中で、日米軍事同盟の「意義」の見直しも必要だと思うが。

誰もが、戦争やいやだ、二度と嫌だと思っている。でも、ただし、なんにもしなくておとなしくしていれば平和が維持される、というわけではない。必要なのは、熱心なコミュニケーション努力の定常化だ。

そう考えると、安保が、お邪魔な「癌」のようなものに見えてこない?

イラクやアフガニスタンで戦死する20歳の米兵もかわいそうだが、腹に爆弾巻き付けて自爆テロさせられる女の子もかわいそうだ。平和国家日本は、がんばれば、両方のメディエーター(平和的仲介者)にもなれるのでは?

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2010年7月 2日 (金)

「自己」のあり方

「自己」にとって、「前世」や「来世」があるのか分からないが、自己というものの『存在』は、その自己自身にとってもまた他己からも、前世来世の有無が分からないことも含め、完全に制御も操作も不可能だ。ただ、あるとき勝手に誕生させられて、あるとき勝手に死なされるだけだ*。人間の場合も、誕生から死までの期間がとても短い自己もある。

*: 失神の体験から類推してよいものならば、死の直後には、単純に、世界が完全に「無」になるだけである。

で、「自己」が、雀やゴキブリや海を泳ぐ鰯などでなく、コスモスでも楠の木でもなく、人間というこの厄介千万な生き物に宿ってしまうという、ある種の不運は、種の進化への非力ながらの貢献義務、と受け取るのが妥当だ。人間は明らかに、まだ、安定状態に達していない生物種だ。ある意味、愚かさと醜さと残酷さのかたまりでもある。しかしそれでも、何千年何百年前に比べると、ずいぶんましになってる面もある(例: 日本などでは内戦はもうない)。

今および近未来の、ヒトという種のメインの課題は、もはや「国家的統一」ではなく、グローバルなコミュニケーションである。「自己」を「自己」という唯一無二の神秘(絶対孤独)として認識し、その認識の反照として「他己」の神秘尊厳を認める。これには、意識の"脱共同体努力==グローバル化"が必要だ。それができるかできないかが、残念ながら今の人類を大きく二分している。

「結婚は悪である」「その続」「トレード強迫からの解放」「その続」「日本を共和制に」、など、これまで基本テーマは並べてきたが、どうも私の自己の使命は単なる物書きらしい。

何年か後の、コミュニケーション有能へ向けてすこしでも進化した人類を見れるなら、再び人間という生物への来世があってもいいが、まあ最初に書いたとおり、これが全然、認識外、制御外のことだから、どうにもならない。なにしろ、次世代の実践的有能化に期待したい。

「自己」が、この、人間という厄介な生き物に宿ってしまったということは、『くそっ、これを何とかしろ!』という何かの意思なのだから、まあ、自分に与えられた能力と機会の範囲内で、がんばるしかないですね、おたがい。

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