カクダイの一般消費者向けマーケティング
【消費者体験からのマーケティング評論(第1回)】
企業が行うマーケティング活動は、まさしく(多様な側面をもつ)コミュニケーション活動であるので、このブログで取り上げていくにふさわしい話題だ。
コミュニケーションというテーマをめぐる理論的な話題だけでなく、このような現世的な話題も取り上げていくことは、このブログへの関心層を増やすためのマーケティング活動(の一部)である。
お風呂の水栓を作っているメーカー企業は、私の知るかぎりでも6〜7社ある。いずれも、お風呂の水栓のみという専業メーカーではなく、多様ないわゆる“水回り製品”を作っている。
さて私が今住んでいる中古住宅は、築後20年前後は経つと思われ、折に触れ随所にトラブルが発生してくる。最近のは、浴室の水栓の水漏れだ。いろいろ調べたり検討したりしたが、いちばん単純確実と思われる方法として水栓そのものを新品に取り替えることにした。
最寄りのホームセンターへ行くと、各社の製品がパネルに取り付けられて陳列されているが、それらの中には、私(わたくし)的にコレ!と思うものがない。ふと見ると、家庭でシロウトが各種の水回り工事をやるためのノウハウをまとめたパンフレットを10種類ぐらい提供しているメーカーがある。大阪の「カクダイ」だ。その中の「混合栓の取替え」というやつが、どうやら私の目当てのものらしい。
#ストラテジー1: 店頭に一般消費者向けインストラクション小冊子を置く。
ところが、そのパンフレットが扱っている製品がこのホームセンターの店頭在庫や陳列品の中にない。
#ネガティブ1: 末端流通活動の粗略。これは、ホームセンター側の過失でもある(ケーヨーデーツー、ここはこのところ、多くの店員が無能なサラリーマン化してて、マーケティング的にたいへん危険である)。
パンフレットには「HPから取付ビデオをご覧になれます」とあるので、いったん帰宅して、そのビデオでお勉強することにした。パンフレットの記述やイラストよりも、ずっと分かりやすい。
#ストラテジー2: インストラクションを分かりやすいビデオでも提供。
そのビデオを見ると、単にシロウト向けのインストラクションであるだけでなく、製品自体が、あまり苦労せずに取り付けられる独自の設計になっていることが分かる。製品名は、<シングルレバーシャワー付き混合栓143-009>だ。
#ストラテジー3: シロウトが失敗せずに容易に取り付けられる新製品の開発。
というわけで、目的の製品を注文(楽天などの上のインターネット値段よりもホームセンターのほうが一回り安い)し、2〜3日後には私一人で工事完了(途中、私の勘違いでドジった箇所もあったが!)、もちろん水漏れはなくなった。ついでに、カビで真っ黒だったシャワーホースもなくなった。
以上、水回りメーカーは大小いろいろある中で、このカクダイという、シロウトにとっては無名に等しい企業は、店頭であっさりとlead(見込み客)を作り出し、しかもそいつ(==私)のconversion(実客化)にも成功したのである。
欲を言えば、パンフ、ビデオ等、一方的マスメディア的なマーケティングコミュニケーションは、どんなに頑張っても、シロウトには分かりにくい箇所が必ず残るのだから、それを補うために、『インターネットが持つ対話性という特性』を、今後はフルに活用していただきたい。HP上にmailto:がまったくないのは、いまどきの企業HPとして信じられない。
#ネガティブ2: インターネット時代にふさわしい、双方向的マーケティングコミュニケーションの欠如。
…というあたりで、マーケティング編の初回、「カクダイ編」を終わります。
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コメント
資本主義のマヌケさは客のための企業活動でなく企業が売りたい物を売るという転倒が起こっているから。
投稿: 南 | 2010年6月16日 (水) 10時02分
今回の例と同じではない
のですが、プログラミン
グが遠くなってしまった
今の生活環境で
何かしなくてはと
教材づくりの一貫という
必要から
電子工作を始めたのです
が
部品を売っているプロも
通うお店とのやりとりを
振り返ると
はじめは
こんなこと普通はしない
んですよと
けむたがられて必要部品
を一緒に揃えてもらった
頃から
悪戦苦闘して自力で揃え
どうしても分からない所
をギブアッブで教えて
もらう頃を経て
ネジやコード類はこれを
買い置きしておけばとか
その部品ならコレで同等
だから代用が効く等の話
が聴けるようになるまで
の
経緯を書きたくなりまし
た。
ウチは冷やかしみたいな
お客さんは相手にしませ
んから みたいな ことも
ポロッと漏れたことも
あったかなぁ
またもやの結論で
申し訳ないのですが
一寸づつ心の扉を開いて
もらうかかわりが
方法の一つに挙げられ
ませんかね
simomitu
投稿: 下光博之 | 2010年6月16日 (水) 17時20分
日本において、一つのビジネス・アクティビティ(Business activity)としての”マーケティング”と言うワードが一般的に定着し出したのは、1990年終盤から2000年初頭頃に掛けてだと思うが、少なくともそれ以前、大中小問わず、純日本企業の日本オフィスには、”マーケティング”の名が付く部門は、殆ど皆無であった様に思われる。類似したものとしては、”企画部”とか、”広報部”と言う部署が挙げられるが、”広報”は別としても、”企画”と”マーケティング”では、その役割分担、また性格・性質は全く異なっている。因みに、私の知る某メーカーUS本社のマーケティング部門は、日本で言うところの”広報・宣伝部門”にほぼ等しいコーポレート・マーケティングに加えて、プロダクト・マーケティング、テクニカル・マーケティング、ビジネス・マーケティング、セグメント・マーケティング、フィールド・マーケティング、…等々と、より細分化・組織化されている。これらの詳しい定義に関しては、各社各様と言う事もあり、此処では割愛するとしても、日本企業の”企画部”に、この様な肌理細かい切り分け(Segmentation)は先ず存在しない。今となっては、大半の日本企業、また多くの業界人の間でワードとしてのみ、既に定着していると思しき”マーケティング”ではあるが、日本の一般人にとって、その事情・実態に関しては、未だに全然、浸透・精通されていない感慨を常々受けてしまう。さて、”マーケティング”とは、果たして何ぞや…?
今此処に、日本食用の、箸、茶碗、お椀、皿、お膳があるものとし、それぞれをa、b、c、d、eとする。この場合、箸、茶碗、お椀、皿が乗ったお膳は、一種のStaticなシステムと見做せる。日本人の殆どは、今も昔もそのスタイル、また、思想・発想からして、”ボトム・アップ”の観点(= Bottom up view)しか持つ事が出来ない。即ち、箸だったら箸、茶碗だったら茶碗、お椀だったらお椀、皿だったら皿、お膳だったらお膳を、個別に、しかも全く孤立・独立した形として勝れた物を創る事には闌けてはいるが、お膳全体を一つのシステムとして見做せないし、また創れない。言い換えれば、a、b、c、d、e、それぞれを創った、職人であるA氏も、B氏も、C氏も、D氏も、E氏も、他人の創作物の機微詳細、即ち、寸法・形状・色合い・デザイン等々に関しては、全く頓着しようとしない。こうなると、寸法・形状の問題から、お膳の上に箸、茶碗、お椀、皿の全てが乗らなかったりとか、また、仮に全て乗ったとしても、色合いやデザインの点で全然ちぐはぐになったり、人間工学的にも非常に使い辛かったりとか、…等々、お互いのセールス・ポイントを活かし切れなくなってしまう事必至である。
市場・顧客(Target)の想定~特定 → 当該商品の研究、及び開発 → 広報・宣伝 → 販売迄を、土壌の選定 → 耕作(Cultivation)→ 種播き → 開花 → 結実 → 収穫迄に喩えた場合、"マーケティング"で重要なのは、その全ての過程・行程において、よりシステマティックでマルチな、”トップ・ダウン”の観点(= Top down view)が必要と言う事である。”ものづくり”においては、例えば、A氏がaを創る際、aだけではなく、システムの構成要素(Element)として想定され得る、b、c、d、eもしっかり観えていなければならない。これは、B氏、C氏、D氏、E氏においても同様で、各人がしっかり観えた時点で、箸、茶碗、お椀、皿が乗ったお膳は、初めて一システムとしてバランスを維持・獲得し、然るべき健全性・正常性を以て問題無く使用する事が出来るだろう。
日本人は、専用機を創るのは上手いが、汎用機を創るのは非常に不得手である。これは、現在から過去に遡っても、日本の著名メーカーの殆どが、専用機メーカーでしかない、また、なかったと言う事から自ずと察しが付くだろう。その理由は、日本人の”システム概念”の欠如・欠落、及び、"トップ・ダウン"的視点・観点の無さ、または弱さに端を発している。従って、"マーケティング"に関しても、対外的なビジネス・アクティビティの一環として、未だに完全に定着出来ていない。
職人気質を良い事に、品質の良い箸(or 茶碗、お椀、皿、お膳、…、etc.)ばっかりを、シコシコ創って悦に入っていれば、埒が明く時代はもう既に終焉している。しかしながら、悲しいかな、日本のメジャー・メーカーの多く、延いては、日本人の大半は、未だにそれに気付いていない。”マーケティング”同様、大規模回路設計における"トップ・ダウン"設計等の思想や発想も、問題解決の方法論(Methodology)の一つとして、罷り間違っても日本人からは出て来ないだろうなぁ…(泣)。日本人は今後、発想の転換とか、そんなお目出度くて生温い次元ではなくて、あらゆる面でもっともっと倒錯しながら物事を観て聞いて、そして考えて行くべきなのか…?
投稿: Voyant | 2012年10月23日 (火) 00時18分