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2010年6月11日 (金)

ぐるぐる回る犬

この前書いた、同時に捨てられた5〜6頭のうちかろうじて保護できた1頭(ボーダーコリー、雄)は、子犬のころから数年間、ケージの中だけで生活していたらしく、最初は「散歩」(人間と一緒に外を歩くこと)ということができなかった。今はまあまあ歩けるようになったが、この子にとって歩くとは、狭いところ…つまりケージの中…をぐるぐる回ることなのである。だから私が外を連れて歩いても、私の体のまわりをぐるぐる回りながら歩いていく。私が立ち止まっても、本人は静止せず、私の体のまわりをぐるぐる回り続ける。

世話人として困るのは、今なお、「排泄は散歩時にする」ということを体得しないことである。またもちろん、室内犬としての室内でのトイレのしつけも体得していない。長年(2〜3年?)、ケージ内垂れ流しの生活だっただろう。最近やっと、おしっこは全機会の90%はペットシーツの上や散歩時にしてくれるが、うんちは、おしっこをする場所の近くの床の上が多い。その都度、ティッシュ、ウェットティッシュ、ポリ袋などを動員して、掃除が一仕事だ。

うーん。今の犬猫たちの置かれている状態は、いわゆる“ペット産業”とその消費者たちも含め、今の人間〜人間社会のあり方の縮図というか鏡に映った像というか、そんなものだな。最近とても多い、幼児や赤ちゃんに対する虐待に比べれば、動物虐待は「まだまし」とか、行為としてのひどさが「軽微である」とか言えるだろうか? まだ許せる、とか? …そんな比較は成り立たないだろう。

このボーダーコリーちゃんにかぎらず一般的に、初期の生活状態の悪かった犬は、人間への100%の信頼というものを持っていない。吠えれば、鳴けば、それを黙らせたい人間が食べ物をくれる、かまってくれる、…そのパターンが染みついている。近くの公園で保護した犬なんて、ほんとは、地域社会全体で前向きに共有すべき問題なのに、おなかをすかせて早朝から鳴く犬に、たまたま保護した者が毎日肩身の狭い思いをしなければならない。これまた、おかしい(参考記事: [コミュニケーション忌避という宿痾])。

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コメント

キレイ事でなく「自分さえ良ければいい」という思想は成り立たない。
それは不可能。

誰もが知っているはずなのに、実践するのが非常に困難。

なぜ??。

投稿: 南 | 2010年6月11日 (金) 15時51分

この件は思いあたる節が
いっぱいある気がします
人、 動物ともに
どう育ってきたかが
大きいのでしょう。
岩谷さんの言葉を借り
れば
あらゆる事を歴史的に
把握せよ
があてはまるのかな?

どうすれば
という問には
すこしづつ、好ましい
行動が増えるように
そっちを強化できるよう
働きかけるしか
思い着きません

難しいのは
半端でなく気のながい
かかわりあいとなるので
短気では
目に見える変化が
わからない 点
かなぁ

旧くは
「かまって音頭」
最近では未聴ですけど
「神聖かまってちゃん」
というバンド
これらも連想しました

simomitu

投稿: 下光博之 | 2010年6月13日 (日) 17時12分

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