「共和主義」の提唱
社会の構成運営のための、現時点での究極の原理は「民主主義」であろうかと思われる。‘社会主義的社会’や‘共産主義的社会’においても、その定義がどうであれ、今日の中国等における(主に知識層の)動向が典型的に示すように、それらが「民主主義」を基盤とするものであることが一般に求められる。(というか、もともと社会主義や共産主義の定義中に、<それが‘一党独裁’によるべし>、という項目はないと思うが。)
ところが、「民主主義」という言葉の重大な欠点は、社会の“質”に関する定義を欠いていることである。「民主主義」という言葉は、‘否定’をバネにして成り立っているように思われる。つまり、特定の個人や特定の家系、特定の党派などが一般民意と関わりなく恒久的に権力を握ることに対する≪否定≫として、『社会の成員全員に権力は由来すべきである』という考えを「民主主義」という言葉は表している。
「民」(たみ, people)が「主」人公である社会。民以外の、よりベターな権力主体をいただく社会は(よほどSF的なもの以外!)考えられないから、その意味で「民主主義」は、上で述べたように究極の社会構成運営原理と言えるかと思われる。
しかし、ではでは、民主主義的社会とは、一体どんな社会であるべきなのか? 言い換えると、民(たみ)が持つ権力は、日常、どんな心がけと方向性において揮われるべきなのか? このような、社会の“質”に関する定義とその普及浸透を欠いているがゆえに、日本をはじめ、いわゆる民主主義国家社会の抱えるさまざまな、とても深刻な、諸問題が発生し蔓延し、絶やすことができず存続しているのはないか。
私たちは、「民主主義」という、中身(質の定義)のない薄っぺらな概念を超える、新しい、より良い、社会運営構成原理を必要とする。
それが、「共和」という言葉を「共に和す」の意味ととる「共和主義」である。この共和とは、社会が豊かなコミュニケーションによって成り立つ、という意味だ。元々の共和制の持つ、君主の廃止という意味は持つものの、定義のもっとも分厚い部分は「共に和す」== full of communicationsという方向性にある。
(republicの訳語としての「共和」には、「共(とも)」の意も「和(わ)」の意味も、全然ないらしい…[参考記事]。)
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コメント
自分の事は自分で決めるということですよね。
その代わり自分で責任を持つということですよね。
福沢諭吉に欠けていたのは、このコミュニケーションという視点でしょう。
偉そうに言って私にもよく分からないが。
投稿: 南 | 2010年6月 8日 (火) 12時52分
> 私にもよく分からないが。
いいかげんそろそろ、「民主主義」よりもbetterでmore powerfulで中身の濃い社会原理が登場してもいい、という私の気持ちです。
「民主主義」は、権力の≪形≫を定義しているだけで、その中身の定義がない。こんな、風船みたいなものでなく、リンゴやスイカのように中身のつまったものが欲しい。
投稿: iwatani | 2010年6月 8日 (火) 18時07分
はじめまして
僕も読んでばかりでなく
発言してみることにします。ロックの日を記念して
ここで触れられている事
は偉い人達の言う、民度
を上げるという事に似ている のかな と思いました。
とすると、勉強と言うか
学習と言うか、教育が
重要と言うことになる。
考えはそこまで
岩谷さんの提案には
もっともだ と 賛同
してしまうサポーター
気取りの身ですが、
その先を発展させられ
なくて歯がゆいです。
ともあれ共和制には
賛成
中身を充実させたいものです!
さて
ついでに触れてしまいますけど、ここのところ
「世界の終わり」という
バンドが気に入ってます
みなさんには響かない
かなぁ
これからもよろしく
simomitu
投稿: 下光博之 | 2010年6月 9日 (水) 22時52分