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2010年6月28日 (月)

明日のグローバルネットワークの構成主体たるジェネリックノード

Appleみたいに相も変わらずクローズドでspoon-fedな製品を得意とするところが、時価総額でMicrosoftを抜き米国第二位の企業になったとか、Facebook、Twitter、Google〜YouTubeといった巨大サーバサイトが、今や100万や1000万どころではなく、億のオーダーのユーザ数に達しているとか(日本ではmixiなどが数千万のオーダー)いった話は、どうも、私のようなパーソナルコンピューティング原理主義者〜ネットワーキング原理主義者(!?)にとっては、ますますおもしろくない。

そこでこの記事では、「ジェネリックノード」というものをスケッチしたみたい。

ノード(node, 節)は、ネットワークを構成する個々の通信主体である。ジェネリック(generic)は、汎用的という意味。今現在のネットワークノードのあり方は、まずサーバとクライアントの違いがあるし、また個々のサーバもクライアントも、s/cの特定のペアが、たがいにペア同士クローズドな特定の通信形式しか実行できない。

これに対してジェネリックノードは、『やりたい通信形式は何でもできる』というネットワークアトムである。たとえばFacebook上のフレンド関係やTwitter上のフォローする人/される人といった関係も、今のように一つの巨大サーバがそれを…個別サービスごとに…サポートするのではなく、複数のジェネリックノード同士がバーチャルサブネットワークを作ればよい。

そのほか、今の検索のようなものや、今はまだない、いろいろ高度なネットワーキング機能〜それらを支えるデータ構造等も、いろんなバーチャルサブネットワークが支えて動かせばよいのである。一点集中型巨大サーバは、要らない。

では、ジェネリックネットワークノードがジェネリックであるために持つべき、ジェネリックな通信機能部品/ツールセット/データ構造集は、どんな揃いぐあいであるべきか。…という具体的な技術論は、今後盛り上がる(盛り上がってほしい)コメント等を通じての議論に期待したい。

というわけで、本稿未完。今日はほんのイントロでした(100628)。

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2010年6月27日 (日)

即席ラーメン商品開発の迷走

【消費者体験からのマーケティング評論(第2回)】

偉大なる安藤百福氏が晩年に言ってたのは、「スープに浸した麺を油で揚げる、お湯をかけただけで食べられる、それが『即席ラーメン』であり、今主流の(1)麺を揚げない、(2)煮る、(3)スープ別添の『インスタントラーメン』とはまったく別の食品だ」という趣旨のことだったと思う(出典は失念)。

だから、安藤氏が、自分が発明したまったく新しい加工食品を「・・ラーメン」と命名したために、のちのちの大誤解が生じたのだと思う。

のちのちの、安藤氏ほど偉大ではないサラリーマンたちは、ラーメンという既存の食品を、その調理過程等を簡易化短時間化することが、自分たちの追求する商品コンセプトだ、と理解(==誤解)したのだ*。そして、即席ラーメンという今までになかった新しい加工食品ジャンル/技術は、どっかへ消えてしまった。〔*: だから、麺の性質などをいかにして本物のラーメンに近づけるかという、まさに誤解的努力が盛大に行われてきた。〕

誤解に基づいて作られたインスタントラーメンは、今や世界的なビッグ商品だから、今さら文句を言っても痩せ犬の遠吠えにすらならないと思うが、でも、真剣な未来の食品マーケティングテーマとして、安藤氏の≪初源的コンセプト≫は、再び注目する価値があると私は思う。

まず、煮ずにお湯をかけるだけの麺としては、油で揚げてあるほうがそのぶん美味であり、また物理的な食感もソフトになる、食べやすい。

そしてスープ別添でないほうが、食べる側としては作業が楽である。

また、油で揚げる、麺中に空気泡ができるという製法は、同じ3分という時間に対して、麺の太さの多様化を可能とする。

さらに、麺に練り込む小麦粉以外の原料も、多様化が可能である。たとえば、蛋白質を十分に補給できる麺や、野菜の風味のある麺なども作れるだろう。

そしてさらに、成形して揚げるという製法では、副材料(具)と麺の一体成形が可能なはずだ(具は準備的加工が必要かもしれないが)。今のインスタントラーメンでは、フリーズドライに依存しているため、具が貧弱さを脱することができない。

というわけで、栄養バランスが良く、味も良く、具も豊富で、食べて体が満足するのは、今のインスタントラーメンではなく、「安藤百福即席ラーメン」の進化形ではないだろうか? 客が納得する内容であれば、今のインスタントラーメンよりやや高めになってもかまわない。

そして、その成功形が世界的に普及したあかつきには、安藤百福氏の偉大さが、今の百倍ぐらい、燦然と輝くのではないか。しかし生前の安藤百福氏は、どこでどう、あまり偉大ではないサラリーマン氏たちに押し切られてしまったのだろう? 当時の、技術的限界のせいか?

このブログをもしも、食品業界にかたが見ていたら、安藤コンセプトの復活と進化を、ぜひ前向きに検討していただきたい。インスタント食品も、そろそろ、新しいレベルアップ製品群が出てきてもいいころではないだろうか。

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2010年6月23日 (水)

他者忘却(続)

前編では、人類のこれまでの思想("自然科学"、宗教、共同体伝統などを含む最広義の)には、そのプライマリな要素として「他者」が欠落している、と書いた。

この欠落ないし完璧な忘却は、自己意識の欠落とパラレルである。

これまでの思想が前提する世界像は、anonymousでnobodyな、ばくぜんとした普遍的一者の眼前に開ける、したがって抽象的な世界である。それは、現実に存在する世界ではない。なぜなら、nobodyな普遍的一者というものは、どこにも存在しないからだ。

現実の世界は、そのベースは、自己というものの絶対的なユニーク性(唯一無二性)、自己というものの絶対的な孤独である。自己は、他己と、絶対的に隔絶している。その隔絶の認識が、自己のユニーク性や絶対的孤独の自覚、すなわち自己意識を導く。

またその隔絶の認識は同時に、コミュニケーションという問題意識をも導く。

これまでの何十万年、ヒトの意識は共同体の生活に埋没していて、「自己」として意識される機会がなかった。そして、あらゆる世界は共同体の世界像の要素であるので、共同体の文化要素や生活要素であり、「他者」ではない*。すなわち、共同体には自己がなく、したがって他者もない。したがってまた、共同体においては、コミュニケーションが問題意識となることもない。

(そこで、他者関係は戦争とトレードの無限ループとなる。)

*: nobodyでanonymousな普遍的一者としての世界像は、共同体のもつこのようなtaken for grantedに全包括的な==他者不在、他者無視の世界像に起源を持つ。他者不在の全包括的な世界像==失礼千万無礼千万な世界像==復讐する他者を招く世界像。

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見よ、初夏の草原の上を、この春生まれの小雀たちが舞い飛ぶ。
おそろしいことに、これらの一羽一羽が、それぞれ、立派に!
「自己」として、その自己の宇宙として、絶対的に隔絶しているのだ。
それぞれが、ものすごく遠い遠い、深い深い、孤独な宇宙を持っている。
自己の不思議、その神秘、そのおそろしさを共有知とするところから、
はじめて、
コミュニケーション有能化への第一歩を踏み出せるだろう。
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2010年6月14日 (月)

カクダイの一般消費者向けマーケティング

【消費者体験からのマーケティング評論(第1回)】

企業が行うマーケティング活動は、まさしく(多様な側面をもつ)コミュニケーション活動であるので、このブログで取り上げていくにふさわしい話題だ。

コミュニケーションというテーマをめぐる理論的な話題だけでなく、このような現世的な話題も取り上げていくことは、このブログへの関心層を増やすためのマーケティング活動(の一部)である。

お風呂の水栓を作っているメーカー企業は、私の知るかぎりでも6〜7社ある。いずれも、お風呂の水栓のみという専業メーカーではなく、多様ないわゆる“水回り製品”を作っている。

さて私が今住んでいる中古住宅は、築後20年前後は経つと思われ、折に触れ随所にトラブルが発生してくる。最近のは、浴室の水栓の水漏れだ。いろいろ調べたり検討したりしたが、いちばん単純確実と思われる方法として水栓そのものを新品に取り替えることにした。

最寄りのホームセンターへ行くと、各社の製品がパネルに取り付けられて陳列されているが、それらの中には、私(わたくし)的にコレ!と思うものがない。ふと見ると、家庭でシロウトが各種の水回り工事をやるためのノウハウをまとめたパンフレットを10種類ぐらい提供しているメーカーがある。大阪の「カクダイ」だ。その中の「混合栓の取替え」というやつが、どうやら私の目当てのものらしい。

#ストラテジー1: 店頭に一般消費者向けインストラクション小冊子を置く。

ところが、そのパンフレットが扱っている製品がこのホームセンターの店頭在庫や陳列品の中にない。

#ネガティブ1: 末端流通活動の粗略。これは、ホームセンター側の過失でもある(ケーヨーデーツー、ここはこのところ、多くの店員が無能なサラリーマン化してて、マーケティング的にたいへん危険である)。

パンフレットには「HPから取付ビデオをご覧になれます」とあるので、いったん帰宅して、そのビデオでお勉強することにした。パンフレットの記述やイラストよりも、ずっと分かりやすい。

#ストラテジー2: インストラクションを分かりやすいビデオでも提供。

そのビデオを見ると、単にシロウト向けのインストラクションであるだけでなく、製品自体が、あまり苦労せずに取り付けられる独自の設計になっていることが分かる。製品名は、<シングルレバーシャワー付き混合栓143-009>だ。

#ストラテジー3: シロウトが失敗せずに容易に取り付けられる新製品の開発。

というわけで、目的の製品を注文(楽天などの上のインターネット値段よりもホームセンターのほうが一回り安い)し、2〜3日後には私一人で工事完了(途中、私の勘違いでドジった箇所もあったが!)、もちろん水漏れはなくなった。ついでに、カビで真っ黒だったシャワーホースもなくなった。

以上、水回りメーカーは大小いろいろある中で、このカクダイという、シロウトにとっては無名に等しい企業は、店頭であっさりとlead(見込み客)を作り出し、しかもそいつ(==私)のconversion(実客化)にも成功したのである。

欲を言えば、パンフ、ビデオ等、一方的マスメディア的なマーケティングコミュニケーションは、どんなに頑張っても、シロウトには分かりにくい箇所が必ず残るのだから、それを補うために、『インターネットが持つ対話性という特性』を、今後はフルに活用していただきたい。HP上にmailto:がまったくないのは、いまどきの企業HPとして信じられない。

#ネガティブ2: インターネット時代にふさわしい、双方向的マーケティングコミュニケーションの欠如。

…というあたりで、マーケティング編の初回、「カクダイ編」を終わります。

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何千年何万年ずうーっと虐待・放置・忘却されていた「他者」

なんか、最近、ついに、「いちばんかんじんなこと」、「これを欠いてちゃそもそもの話が成り立たないというもの」に気づいた気がする。

『現代思想』という言葉の意味を、ここでは、近過去〜今〜近未来に生きている人の生き方や考え方を支配〜制御している思想、としよう。なお、便宜上ここでは、物理的にテキストがあるものや、それらのテキストの原著者やオリジネータを取り上げるが、テキストも著者もオリジネータも存在しない(または不明な)、共同体的伝承や慣わしのようなものも、現代思想として強い力を持っている。

…テキストのあるものと、ないもの、この2者を区別して考えるのは面倒なので、ここでは、後者には<ゼロのテキスト>がある、ということにして、全体を『現代思想』として一本化してしまおう。

またもちろん、キリスト教やイスラム教など、メジャーな宗教の教説やテキストも、多くの人の生き方を根底で支えているかぎり、そのぶんは、りっぱに現代思想である。

で、それらの、現代思想の教説というかテキストに全共通しているのは:

他者概念が明確にない

ということなのだ。

他者概念がない以上、当然ながら、コミュニケーションという問題意識もない。

まあなんでもいいが、たとえば学生時代にカント、ヘーゲルを熱心に読んだ人、ジャン・ジャック・ルソーを熱心に読んだ人、アダム・スミスを、マルクスを、キリスト教の福音書を、あるいは何らかの<ゼロのテキスト>を、等々、任意の、現代思想のテキストを思い出してみていただきたい。

全共通して、他者は欠落している。それらのテキスト中の、プライマリ(第一等の、もっとも重い)な概念中に、他者はない。

そこで、他者は、思想における、完全な処女地、完全に未開の大陸である。

この、つねにもっとも身近にいたものが!。

というわけで、真のコミュニケーション学/コミュニケーション理論が、その生成と共有にむけて一歩を踏み出しうるためには、この、何千年何万年と放置されてきた『他者忘却』を、抜本的に、なんとかせにゃあかんのである。

--本稿未完--
p.s. 以前は、日本の田舎の人の心や脳には、他者という概念--他者の尊厳--がしっかり確立していないなぁ、と感じていたが、よーく考えると、日本の田舎の人どころのローカルな話では全然ないのであった!。

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はやぶさのおみやげ

オーストラリアの砂漠から試料が回収されるらしいが、最広義の「検疫」は大丈夫なの?。

一般的に、宇宙探査や宇宙開発は、「あとから来襲する他者」的に行われている、という問題意識は、当事者レベル(and/orマスコミレベル)にまったくないの?。

ま、襲うなら、space debrisが落ちるruralの弱者を襲わないで、東京やワシントンなどのエリートたちを襲ってよね。宇宙は退屈だ。宇宙に象徴される「外」へ向かうことを、人類はそろそろやめないとだめですよ。何度も言ってるように。

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2010年6月11日 (金)

ぐるぐる回る犬

この前書いた、同時に捨てられた5〜6頭のうちかろうじて保護できた1頭(ボーダーコリー、雄)は、子犬のころから数年間、ケージの中だけで生活していたらしく、最初は「散歩」(人間と一緒に外を歩くこと)ということができなかった。今はまあまあ歩けるようになったが、この子にとって歩くとは、狭いところ…つまりケージの中…をぐるぐる回ることなのである。だから私が外を連れて歩いても、私の体のまわりをぐるぐる回りながら歩いていく。私が立ち止まっても、本人は静止せず、私の体のまわりをぐるぐる回り続ける。

世話人として困るのは、今なお、「排泄は散歩時にする」ということを体得しないことである。またもちろん、室内犬としての室内でのトイレのしつけも体得していない。長年(2〜3年?)、ケージ内垂れ流しの生活だっただろう。最近やっと、おしっこは全機会の90%はペットシーツの上や散歩時にしてくれるが、うんちは、おしっこをする場所の近くの床の上が多い。その都度、ティッシュ、ウェットティッシュ、ポリ袋などを動員して、掃除が一仕事だ。

うーん。今の犬猫たちの置かれている状態は、いわゆる“ペット産業”とその消費者たちも含め、今の人間〜人間社会のあり方の縮図というか鏡に映った像というか、そんなものだな。最近とても多い、幼児や赤ちゃんに対する虐待に比べれば、動物虐待は「まだまし」とか、行為としてのひどさが「軽微である」とか言えるだろうか? まだ許せる、とか? …そんな比較は成り立たないだろう。

このボーダーコリーちゃんにかぎらず一般的に、初期の生活状態の悪かった犬は、人間への100%の信頼というものを持っていない。吠えれば、鳴けば、それを黙らせたい人間が食べ物をくれる、かまってくれる、…そのパターンが染みついている。近くの公園で保護した犬なんて、ほんとは、地域社会全体で前向きに共有すべき問題なのに、おなかをすかせて早朝から鳴く犬に、たまたま保護した者が毎日肩身の狭い思いをしなければならない。これまた、おかしい(参考記事: [コミュニケーション忌避という宿痾])。

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2010年6月 8日 (火)

「共和主義」の提唱

社会の構成運営のための、現時点での究極の原理は「民主主義」であろうかと思われる。‘社会主義的社会’や‘共産主義的社会’においても、その定義がどうであれ、今日の中国等における(主に知識層の)動向が典型的に示すように、それらが「民主主義」を基盤とするものであることが一般に求められる。(というか、もともと社会主義や共産主義の定義中に、<それが‘一党独裁’によるべし>、という項目はないと思うが。)

ところが、「民主主義」という言葉の重大な欠点は、社会の“質”に関する定義を欠いていることである。「民主主義」という言葉は、‘否定’をバネにして成り立っているように思われる。つまり、特定の個人や特定の家系、特定の党派などが一般民意と関わりなく恒久的に権力を握ることに対する≪否定≫として、『社会の成員全員に権力は由来すべきである』という考えを「民主主義」という言葉は表している。

「民」(たみ, people)が「主」人公である社会。民以外の、よりベターな権力主体をいただく社会は(よほどSF的なもの以外!)考えられないから、その意味で「民主主義」は、上で述べたように究極の社会構成運営原理と言えるかと思われる。

しかし、ではでは、民主主義的社会とは、一体どんな社会であるべきなのか? 言い換えると、民(たみ)が持つ権力は、日常、どんな心がけと方向性において揮われるべきなのか? このような、社会の“質”に関する定義とその普及浸透を欠いているがゆえに、日本をはじめ、いわゆる民主主義国家社会の抱えるさまざまな、とても深刻な、諸問題が発生し蔓延し、絶やすことができず存続しているのはないか。

私たちは、「民主主義」という、中身(質の定義)のない薄っぺらな概念を超える、新しい、より良い、社会運営構成原理を必要とする。

それが、「共和」という言葉を「共に和す」の意味ととる「共和主義」である。この共和とは、社会が豊かなコミュニケーションによって成り立つ、という意味だ。元々の共和制の持つ、君主の廃止という意味は持つものの、定義のもっとも分厚い部分は「共に和す」== full of communicationsという方向性にある。

--本稿未完---
[日本共和党綱領]
[関連ブログ記事]

(republicの訳語としての「共和」には、「共(とも)」の意も「和(わ)」の意味も、全然ないらしい…[参考記事]。)

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2010年6月 3日 (木)

ベートーヴェンの第九

ベートーヴェンの交響曲第九番(合唱付き)通称「第九」の、圧倒的名演といえば、今でも1951年のフルトヴェングラーの録音だと思うが、最新のリマスター盤は音質がすごく良くなってるらしい。

数十年前に、大阪難波の古い薄汚い暗い「名曲喫茶」(当時まだ「ロック喫茶」はない)で聞いてすごく感動した演奏だが、しかし2006年のリマスター盤を買う気にはなれない。慢性金欠のせいもあるが、どうもあれからの数十年、あれほどの名曲名演奏と現実世界との落差が、ますます大きくなってる気がして、空しさが先に立つ。極端な比喩を言えば、自立更生促進センター反対のおばちゃんが、年末の「第九」コンサートのコーラスで「全人類は兄弟となる〜〜」なんて歌ってるかもしれない。

どうなんだろう? たとえば、何百年も戦争を繰り返してきたヨーロッパで、やっとEUというものを実現した西ヨーロッパ人なら、空しい気持ちなく、彼らの父たち母たちが戦後復興で張り切っていた時代の「第九」の名演奏を、今でも買って聴けるだろうか?

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