ステージの終焉
だいぶ前ですが、音楽プロデューサみたいなことをやったことがあり、売れなかったという点では失敗であり短期で終わったんだけど、それで正当だったという思いがある。
そのミュージシャン氏もその後、ほかの人をプロデューサとしてミュージシャンとして成功したりはしなかった。文才のある人なので、小説などいくつか書いたようだが、それも村上某などのように売れはしなかった。そのことも、やはり、正当なことだったという思いがある。
それは、「ステージの終焉」というコミュニケーション学〜理論における重要命題と関係がある。
だいたい、あの世界的怪物的ステージ現象たるビートルズが、熱心なファンによるその頭目の暗殺で幕を閉じたということのもつ、歴史神がわれわれに与えた、ものすごく重要なアレゴリーを、だーれも真剣に考えてないよね。2010年になる今でさえ。
(ナチス〜ユダヤ人差別のもつ、重要な意味もね、いまだに。)
なぜステージが終焉しなければならないかということの説明は、今回は[この文]に代役させようと思う(今回は短く書きたいので)。でもさぁ、インターネットって、対話、会話、多方向的コミュニケーションの場だろ。私は、ヒトのブログなど訪れて、見て、読んで、だまって帰るような失礼なことはせんよ。議論、あるいはそのブログ(など)の世界を、前向きにふくらませるような一言を残すよう、つねに心がけている。専門的すぎて難解なのは、それができないこともあるけど。
日本ではインターネットも、単に表現者のステージになってる部分が大きいのかな。どうも、あかんなぁ。
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コメント
では、少しずつでもコメント残していきます。
「ありがとう」を廃語にしよう、と重なるところがありますね。人が助け合うのは当たり前で、出しおしみしない。打算的になる理由がない。
でも、売れるために一生懸命、音楽作る人が居なくなれば、コマーシャルないい音楽無くならないだろうか・・。その時は、別の欲求(コミュニケーション)による打算的でない音楽がうまれるのか・・想像が及ばないですね。
投稿: ootora | 2010年5月11日 (火) 01時17分
そうですねぇ
どうしても読んでしまいますねぇ。
読むってのは
他人の独り言を聞き続けるってことなので
対話の始まりではありませんねぇ。
僕もなるべくコメントを残すよう
努力します。
投稿: 南 | 2010年5月11日 (火) 11時26分
具体個別な事が一般的商品になったとたん、具体性の方はどこにいくんでしょうか。
投稿: bad | 2010年5月13日 (木) 01時43分
ビートルズ詩集のあとがきの、復活するのはスターではなく、私たち一人一人であるという最後の部分を具体的に生きることを伝えるのは無理ではないか。つねにに終わった、終わった、あるいは忘れた、忘れたという物語を反復するしかないのではないか。
投稿: nakagawa | 2010年5月13日 (木) 22時13分
そうですねえ、私もこれからは、人のブログやらを読んだときには足跡を残していこうと思います。単なる素朴な「感想」でもいいから。
というわけで感想ですが、「ステージ」型の表現は、そんな簡単に終焉しないと思いますよ。なぜなら、世の中、それを生活の糧としている人とそれを楽しみにしている人が多くいるから。
例えば、ビデオというものが世の中に普及して、映画館は無くなる、と言われたのはかなり昔ですよね?しかし、21世紀の今日に至っても、ある程度の数の映画館は存在する。そりゃあ、半年後にはディスク化されるけれど。中にはロードショー中にすでにブルーレイ化された映画もありますが、とにかくそれでも映画館は依然として、在る。
音楽は、いくらネット配信が進んでも、やはりバカでかい音を聴きたい、生の良い音を聴きたい場合はコンサートでしょう。
本は、たとえグーグルが過去のものをすべてデジタル化したとしても、やはりそう簡単には無くならないんじゃないですかね。これもビデオVS映画館同様。
実際、どう考えても古すぎてどうしようもないだろう、と思われる表現形態、つまりオペラとか歌舞伎とかほかにもいろいろ古い「ステージ」は21世紀になっても残ってますよね。
あなたの言っていることは正しいかもしれない。しかし、そんな簡単に変化したら困るという人はたくさんいるんじゃないでしょうか?人類全員とは言いませんが。
投稿: ドートマンダー | 2010年5月19日 (水) 16時27分
> そんな簡単に変化したら困るという人はたくさんいる
イスラエルの軍事学者も、オバマさんのビジョンは立派だが、核兵器のない世界なんてありえない、と言ってましたなぁ。
そんな「正しい常識」は、クソの役にも立たないんだよ。どんな分野においてもね。
投稿: iwatani | 2010年5月24日 (月) 12時01分
> だいぶ前ですが、音楽プロデューサみたいなことをやったことがあり、売れなかったという点では失敗であり短期で終わったんだけど、それで正当だったという思いがある。
『不可能』、でしょうかね。
> そのミュージシャン氏もその後、ほかの人をプロデューサとしてミュージシャンとして成功したりはしなかった。文才のある人なので、小説などいくつか書いたようだが、それも村上某などのように売れはしなかった。そのことも、やはり、正当なことだったという思いがある。
昨今は、コミュニケーションや愛をテーマに掲げているメッセンジャーの場合にも、その人の根本姿勢が、実は、ディスコミュニケーション、つまり、コミュニケーションが商品形態というディスコミュニケーションに還元可能な、パッケージング性の高い者が、業界、そしてエンドユーザーの双方により、無意識に選別されているきらいがあるように思います。これは、「欺瞞の定着化」といえるような何かではないのですか。そういう“遺伝子”が、ロックファンという人種の血の中で、強化されているのではないですか。
投稿: 最期の奴隷 | 2010年7月26日 (月) 19時02分
2016年9月のトピック、「本という厄介もの」のコメントからの流れ弾的にこれを書いてます。
>議論、あるいはそのブログ(など)の世界を、前向きにふくらませるような一言を残すよう、つねに心がけている。
手っとり早く話すためにコピーさせてもらいました。ネッ、オレなんかはこのコミュニケーションを謳ったブログに大小さまざまなコメントが、じゃかすか寄せられてくるのをイメージしていた。だけど現実はどうなんだい。お寒い限りである。思うに皆さんまだ、ステージの方を見ているだけの消費者のままなんである。けして自分から参加しようとしない、遠くからの傍観者。
なんかこのままアジったところで、有効でない気はするんだけど。おれは各トピックにコメントが30くらい並ぶのを夢想するんだけど。どんなステージでも実験は可能なんだと思う。読者が一人一人大きな声でそれについての意見・感想を言ったら、どういう光景になるのか見させて欲しいなー、と思う次第でありまするー。
投稿: s,n | 2016年9月24日 (土) 21時37分