言葉の意味の動態性
人類社会のタイムラインをコミュニケーション以前とコミュニケーション以後に分けるなら、コミュニケーション以後においては、言葉の意味は対象ディスクールや対象テキストという「静物」の中にあるのではなく、また、個々人の理解や解釈の中にあるのでもなく、言葉の送信者と受信者との対話的関係性の中にある。したがって言葉の意味は静態ではなく動態である。
ただし、真のコミュニケーション学/コミュニケーション理論において最重要な命題の一つは、「分からないものは分からない」である。死は分からないものの典型であるし、送信者との対話がありえない残存テキストは、ほぼどれも、分からないものの代表格だ。たとえば、処刑台上のイエス・キリストの最後の言葉は福音書によって違うし、またその解釈もいろいろだ。だからそれは、ありうる唯一の正直な態度としては『分からない』である。古典研究という学問も、また古典を読書する行為そのものも、実は最初からまったく空虚な営為であらざるをえない。
コミュニケーション以後の時代においては(それはいつのことか?)、それまでの非常に多くのものが、「分からない」の広大な墓地に葬られ、そのぶん、人類は身軽になり、コミュニケーション的に明るく元気になるだろう。
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