犬猫悟り記(1)
自律的(自立的)な野生生活のありえない犬や猫は、そのぶん、極端に孤独でたよりない生物個体だが、そもそも、遺棄猫や遺棄犬を、やむを得ず保護してしまう私のような人間は、生物として犬や猫よりもいろんな意味で「上位に」あるから、上位者としての保護者になるのではないのである。
そうではなく、孤独で極端にたよりない生物である犬や猫と日常を共にすることによって、たまたま人間という、これまた厄介な生き物になっているこの私もまた、本質的に天涯孤独な「自己存在」であることをつくづく実感できるのだ。「犬や猫」と「私」は、つまり、同列である。「私」が、彼らの--社会的飾り物や自己欺瞞のない…存在レベルへと下りてしまうのだ。いや、お好みでは、上がってしまうと言ってもよいが。
これが、犬たち猫たちが人間に与える悟りの第一、すなわちトップ項目だ。天涯孤独で素っ裸のたよりない「自己」、この宇宙の唯一最大の神秘である「自己」こそが、真のコミュニケーションの基底となりうる。
トマちゃん。トマちゃんは、ほんまに、愛そのものだったなぁ。うそみたいに。
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コメント
私も「魂」は、「永遠に不滅です。」と思っている。生命はこの体と共に、途絶えると思うが、魂というか意識はどんなレベルであれ、永遠に残るんじゃないか。そしてその魂とは、永遠に一人、孤独であろうと思う。心中したって、何の意味があるんだろう。
はてさて、そんな孤独な魂の持ち主である人間も、この地球の上なら束の間の人生という期間だけでも、楽しむ、愛し合う、生きがいをみつける可能性がある。他を尊重し、コミュニケを上手くとっていけたなら。必ず死を迎え、この世とオサラバしなくてはいけない身としては、この世を束の間のオアシスにしたいものである。どうせあの世に一人、裸で帰っていく「魂」なのに、なぜこの世で強欲を張り、他人に迷惑をかけるのか。
強権者が持っているのは、自分の世界が永遠に続くという奢り、歴史に名を残したいというチンケな欲なのだろうか。そんなもののために、我々が苦々しい思いをするのは理に合わない。。
みんなが「魂」という、何も持てない、常に同伴者のいない旅路の途中にいるのだということを強く自覚すれば、自ずと柔らかくコミュニケイティブになれると、思うのである。
投稿: ohiya | 2014年6月30日 (月) 07時28分