「ありがとう」を廃語にしよう
子どものころから、「ありがとう」という言葉を言うことにも言われることにも抵抗感と違和感があった。複数の人間間(かん)の互恵的関係は、有り・難いもの、希少なもの、存在しがたいもの、hard to be foundでhard to existなものであってはならない。日常的な、当たり前のものでなければならない。
人間の社会は、人間という動物が、今の、コミュニケーション不能な醜い下等動物から、コミュニケーション有能に進化することによって、今のトレード*支配社会から、全面的な互恵のネットワークへと変身しなければならない。〔*: trade支配社会, 有価交換の強制と絶対的義務化。“米も金もねーんなら娘を吉原へ売れ!”、“娘がいなけりゃ家も田畑も売って乞食になれ!”〕
コミュニケーションは、人類にとってまったく新しい、そして圧倒的に重要な、思考課題である。過去のあらゆる思想家も、また数千年前からのメジャーな宗教家も、コミュニケーションについて真剣に思考した人は一人もいない。トレードという残虐を、当然視--taken for granted--していたから。
というわけで、日常の互恵的関係は当たり前だから、いちいち「ありがとう」を言うのはやめましょう。それはきっと、未来の、トレード廃棄へとつながっていくでしょう。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
好き。とか、嫌い。と違って、ありがとう。って感情表現ではなくてただの説明なんですよね。稀少である。という。弁解の余地がなくて「申し訳ない」とか自分がなにか埋め合わせしないと「済みません」とかと同じで。感情表現としての「ありがとう」を持たない日本語って岩谷さんのおっしゃるきたるべきコミュニケーション有能な社会にふさわしいのかだろうか?いちいちありがとうと言う必要がない社会にはあってるようなきもしますが・・・
投稿: 4and5 | 2010年3月 8日 (月) 18時06分
”ありがとう”を廃語にしてはならない。それは、”稀少である”という説明ではなく、単に感謝の意を表す言葉である。
私はフト思うのだが、コミュニケーションによって成り立つ社会とは、もしかしてもの凄く気を使う社会ではなかろうかと。貨幣が使われる要因に、気を使わずにラクだから、というのがある。金を出せばアトのことはおかまいなしにサッサと出てこれる。
つまり、貨幣のない社会を目指す者としては、アトのことも気にする必要がある。アトのことは、その担当者に任すしかないのだから、せめて、その担当者に感謝の意を示そうじゃないか。
最初の最初に、共同で生きていく心得として、互恵関係は当たり前として教育していくにしても、そのことを確認・忘れないようにしていくためにも”ありがとう”は言ったほうが良いと思う。言うじゃないですか。「感謝は、悟りを得る始め。」とね。
投稿: Ohiya | 2014年6月10日 (火) 07時56分
そう、謝意。
その感情表出であるべきでしょう、it's a miracle...互恵関係。
「済みません」と言って現れて「済みません」との存在根拠で居座って、保身の説明責任として「ありがとう」御座居ます、これでは、相撲社会と云はれかねませんね。
投稿: 分 | 2014年6月12日 (木) 00時38分
はて、相撲社会とは何ぞや。
本末転倒社会?
あるいは、がっぷりよつ下手引き落とし
(*^o^*)社会?
投稿: Ohiya | 2014年6月12日 (木) 04時43分
>保身の説明責任として
< accountability 説明責任からの逃げ口上として
投稿: 分 | 2014年6月12日 (木) 17時11分