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2010年3月14日 (日)

生態系の破壊(続2)

具体と現実を表現できない空疎で非現実な学知があって、そのサンプル、インスタンス(instance, 実例, 実物, 実現)としての具体個体があるとするストーリー…従来の科学やメジャーな宗教の基本スタンス…は、完全にupside-down、倒錯している。それは、愚かな人間の、愚かで矮小なる驕りである。その愚はどうやって形成されたかというと、原始から始まるネイティブ共同体性の積み重なり、無意識化デフォルト化によるものである。数概念も数学も、そうだ。

そして、人を、価値*のインスタンスへと貶(おとし)める、近代〜現代の強力な支配的愚思考が、それを相対化〜はねつけできない弱者を、いわゆる“精神疾患”に陥れているような実感がある。ドゥルーズ/ガタリは、もっと簡明な本を書くべきだった。〔*: 交換価値==父性範型としての概念==anotherオトコの光景。〕

だからネイティブ共同体性の破壊が、コミュニケーションを軸とする透明無色無臭な新グローバルコミュニティへと再編成されていくことと並行して、自然科学に代表される旧学知に、知としての下位化*の烙印を押すはずなのである。〔*:残るけれども、今のような上位的支配性は持たない。〕

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2010年3月13日 (土)

生態系の破壊(続)

コミュニケーション有能をベースとして、今日「自然科学」と呼ばれている学知(数学、物理学、etc.)も根底から変わるだろう。そのとき、コミュニケーション不能時の学知は、かつての“大地は平であり4頭の象が支えている”なみの愚かな学知として遇せられよう。

コミュニケーションという視野から見た「数概念の本質と数学の滑稽」については、過去に(本ブログ以前に)何度かスケッチを書いた。まだ不十分なものであるが、いずれ優れた展開者が現れるものと期待している。

生命〜生物については、現行の自然科学的学知は、完全に非現実的であり、生命という現実をまったく、小指の先ほどもカバーしていない。生命〜生物の唯一の現実的本質は「自己」であり、何度も言うとおり、「自己」こそが、この宇宙の唯一最大の神秘である(そして、唯一の、真のフロンティアである)。生命〜生物に関する現行の自然科学的学知のストーリーからは、この、生命の唯一の現実が欠けている。だからそれは、非現実的なエセ学知である。それは、生命を疎外すると同時に、並行して、いわゆる無機的外部的自然をも、…非生命的要素として!…、疎外しているのだ。このように現行の自然科学は、自然の疎外、自然のexpoloitの根幹的哲学となっている...犯罪者である。(最近書いたこれや、その続編も読んでみていただきたい。)

なんで、無機的自然からあるとき偶然にもアミノ酸が生成され云々というおよそ非生命的なストーリーが生まれるかというと、それは現行の自然科学学知は、自然と生命を欲(monkey-grip)とexploitの対象として根底から疎外しているからにほかならない。まあ、貪欲な石油屋の学知、というやつだ。ふにゅ、ふにゅ。*, **, ***

〔*: そのようなことをほざく“科学者”もまた、自己の自己を、つまりかんじんのものを、どこか虚空へと疎外した状態で、むなしい非現実なことをほざいているわけだ。〕

〔**: 単なる、対象としての存在、人間が(肉眼や機器を介して)視たり、操作したりする対象的宇宙は、存在のtemporaryで人間ローカルで表層的な像にすぎず、存在本体ではない。真のコミュニケーションのベースとなるのは、存在本体==神秘としての自己, そういうものとして自覚された自己、にほかならない。対象的宇宙に埋没している自己は、存在本体に関して、完全な盲目である。〕

〔***: 科学的知見、たとえば心理学、脳科学、などなどの知見をどれだけ微細に積み上げても、具体的な「わたし」や具体的な「あなた」には行き着かない。知と称しながら、実在をとらえることができない。ゆえに、科学という学知は非現実なのである。〕
--本稿未完--

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2010年3月11日 (木)

生態系の破壊

生態系は「破壊」されない。それは、「変わる」だけである。ゼロ個が個数であるなら、ではnullの生態系も生態系だ。しかも、たとえば月や太陽がnullの生態系だとすれば、それはただ、人間がそう言っただけである(参考URL)。

だから生態系の破壊は、コミュニケーション不能人類の愚かにして狭量なる驕りの概念にほかならない。自分の欲に叶わないものは、“壊れている”のだ。ハッハッハ、このバカめ。

私と同じく、今の人類にまともに取り合ってもらえない永山氏の宇宙学によれば、無機宇宙から、その中の某所に、なんかの拍子で生命〜生物が生じたのではない。「初めに生命ありき」なのだ。だから、全宇宙が豊饒なる生態系である。

そのほか、農学における藤井氏、経済学における○○氏(お名前忘却)、などなど、今の人類に取り合ってもらえないあの人たちはどうしているかな。エコノミーは、貨幣の動的量ではない。複数の人たちが資源をうまくdefensiveに分かち合いながら、仲良う生きていく、「集団やりくり」のことだ、とはその○○氏から教わった。だとすると究極のエコノミーは、コミュニケーション有能人類における、互恵ネットワークのことだな。

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2010年3月 6日 (土)

「ありがとう」を廃語にしよう

子どものころから、「ありがとう」という言葉を言うことにも言われることにも抵抗感と違和感があった。複数の人間間(かん)の互恵的関係は、有り・難いもの、希少なもの、存在しがたいもの、hard to be foundでhard to existなものであってはならない。日常的な、当たり前のものでなければならない。

人間の社会は、人間という動物が、今の、コミュニケーション不能な醜い下等動物から、コミュニケーション有能に進化することによって、今のトレード*支配社会から、全面的な互恵のネットワークへと変身しなければならない。〔*: trade支配社会, 有価交換の強制と絶対的義務化。“米も金もねーんなら娘を吉原へ売れ!”、“娘がいなけりゃ家も田畑も売って乞食になれ!”〕

コミュニケーションは、人類にとってまったく新しい、そして圧倒的に重要な、思考課題である。過去のあらゆる思想家も、また数千年前からのメジャーな宗教家も、コミュニケーションについて真剣に思考した人は一人もいない。トレードという残虐を、当然視--taken for granted--していたから。

というわけで、日常の互恵的関係は当たり前だから、いちいち「ありがとう」を言うのはやめましょう。それはきっと、未来の、トレード廃棄へとつながっていくでしょう。

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結婚は悪である(続)

結婚は愛の形態として不具かつ不健全であるだけでなく、今日の、旧共同体が無力化形骸化した社会においては、人間の生活単位の形として“危険”なのである。経済的にも、そして文化的(==知的生活的)にも、きわめて危険である。

その危険性の、ぎすぎすとした現れや醜悪な現れは、すでにいろいろな形である。最大に心痛むものは、かつてはほとんどなかった、子どもの虐待殺の増加、日常化だ。

社会の真の問題に対して、自民党がとろかっただけでなく、民主党も50歩100歩とろいね。また、私のこのような議論が、何年も何年もマイナーな見解として細々と存続してるだけってのも、日本社会の今後にとってきわめてまずい。もっと別の、もっと効果的なやり方って何だろう?

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