コミュニケーション有能をベースとして、今日「自然科学」と呼ばれている学知(数学、物理学、etc.)も根底から変わるだろう。そのとき、コミュニケーション不能時の学知は、かつての“大地は平であり4頭の象が支えている”なみの愚かな学知として遇せられよう。
コミュニケーションという視野から見た「数概念の本質と数学の滑稽」については、過去に(本ブログ以前に)何度かスケッチを書いた。まだ不十分なものであるが、いずれ優れた展開者が現れるものと期待している。
生命〜生物については、現行の自然科学的学知は、完全に非現実的であり、生命という現実をまったく、小指の先ほどもカバーしていない。生命〜生物の唯一の現実的本質は「自己」であり、何度も言うとおり、「自己」こそが、この宇宙の唯一最大の神秘である(そして、唯一の、真のフロンティアである)。生命〜生物に関する現行の自然科学的学知のストーリーからは、この、生命の唯一の現実が欠けている。だからそれは、非現実的なエセ学知である。それは、生命を疎外すると同時に、並行して、いわゆる無機的外部的自然をも、…非生命的要素として!…、疎外しているのだ。このように現行の自然科学は、自然の疎外、自然のexpoloitの根幹的哲学となっている...犯罪者である。(最近書いたこれや、その続編も読んでみていただきたい。)
なんで、無機的自然からあるとき偶然にもアミノ酸が生成され云々というおよそ非生命的なストーリーが生まれるかというと、それは現行の自然科学学知は、自然と生命を欲(monkey-grip)とexploitの対象として根底から疎外しているからにほかならない。まあ、貪欲な石油屋の学知、というやつだ。ふにゅ、ふにゅ。*, **, ***
〔*: そのようなことをほざく“科学者”もまた、自己の自己を、つまりかんじんのものを、どこか虚空へと疎外した状態で、むなしい非現実なことをほざいているわけだ。〕
〔**: 単なる、対象としての存在、人間が(肉眼や機器を介して)視たり、操作したりする対象的宇宙は、存在のtemporaryで人間ローカルで表層的な像にすぎず、存在本体ではない。真のコミュニケーションのベースとなるのは、存在本体==神秘としての自己, そういうものとして自覚された自己、にほかならない。対象的宇宙に埋没している自己は、存在本体に関して、完全な盲目である。〕
〔***: 科学的知見、たとえば心理学、脳科学、などなどの知見をどれだけ微細に積み上げても、具体的な「わたし」や具体的な「あなた」には行き着かない。知と称しながら、実在をとらえることができない。ゆえに、科学という学知は非現実なのである。〕
--本稿未完--
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