国母選手
個人技スポーツにかぎらず、自分の表現をする仕事では、どのタイミングでどんな服装(などのスタイル)をするかが、自分の気持ちの持ってきかたの過程で重要な場合がある。とくに今回の冬季オリンピック日本選手団のユニホームでは、首を締め付けるネクタイが問題だろう。
というわけで、記者会見の席で国母選手がしおらしく反省(などしていないくせに!)の言葉を述べるよりは、例によって愚かなマスコミの愚かな記者たちを嘲り罵倒するような発言をしたほうが、かなりの数の日本人の胸がスッとしただろう。本番の結果も、そのほうが良かったはずだ。
でも、はっきり言って、オリンピックというものは今や完全に、仰々しい欺瞞だ。
| 固定リンク
コメント
>でも、はっきり言って、オリンピックというものは今や完全に、仰々しい欺瞞だ。
私もそう思います。
今回の冬季オリンピックで、日本人の女性が、わざわざ、ロシア国籍を取得して、ロシア代表として、フィギュアで、オリンピックへ出ましたよね。
これって、根本的にオリンピックの、成立基盤を揺るがすような行為だと思います。
と、言うのも、
なんなれば、ただの普通の日本人の女の子が、オリンピックに出たいとなれば、それこそ、ジャマイカ国籍でも取得して、フィギュア・スケートのジャマイカ代表として、オリンピックに出るということは、全然ありえることでしょう・・・
日本人を辞めることの自由は、憲法で保障されていますし。。。
日本国憲法、第22条、国籍離脱の自由。
昔、ロッキング・オンの熱心な読者でした。原稿が載ったこともあります。(1980年8月号)。岩谷宏さんと、こうして、直接的にコミュニケーションが取れるーさらに、それが、それこそ、世界中へ広がるような、さらけ出されるような、コミュニケーションとなる―。。。
本当に、新しい時代となりました、感慨深いです。
投稿: 深谷満彦 | 2010年2月22日 (月) 22時08分
>
さくヌケ
投稿: del | 2010年2月23日 (火) 13時22分
スケートショートトラックだけはどうも・・。競技として成立してるのか。
欺瞞・・?・・難しい。パソコンも難しい。
でも、どうなのかな・・世界中の人のオリンピック競技に対する意見は。ネットでの意見を委員会が参考にし、改革していける余地はあるんじゃないの?たぶん、オープンネットを通過した意見の方が、閉鎖的(?)な色んな委員会の意見よりも客観的な正当性を有しているのではないだろうか。
なので?・・より納得できる社会の為にパソコン・ネットに携わる方々、今後共、よろしく。
・・・パソコン使いこなしてない者より。
投稿: 後悔 | 2010年2月27日 (土) 03時27分
ごぶさたしています。xorではおせわになりました。いまは四国で焼き物をやっています。去年からパソコンをはじめました。しくみというのがあまりわかりません。基本的なことをたまに質問したいのですがよろしいでしょうか。osはマックのosxです。うちには猫も山羊もいます。また。
記事には無関係なコメントですみません。
投稿: 窪幸二 | 2010年3月 1日 (月) 12時55分
改めて始めまして。元、後悔です。
現在、四国の某所で、寺の僧侶をやっています。以前は私もひやかし程度に(いや、そんなつもりではなかったけど)xorでお世話になりました。で、ここを知ってから読ませてもらっていたのですが、書きこむ気を起こしたのは、上の深谷さんの書き込みを読んだからです。多分、岩谷さんに比較的近い方の投稿が多かったのではないかと想像しますが、そこに風穴(ro以来で)を空けてくださった。ネットは、現実がそうであるように、予期せぬ様々な事象が現れることと同様に開けていることが好ましいと考えています。限界もありますが。
ところで、年がら年中遊んでいます。遊びと金儲けに夢中で、大金を手にしたらトンずらするかもしれません。でも、こうでなければ、何を言っても自分の場合、偽善になります。そして、思考力も欲望と行動の上になければ格段に落ちます。結婚の話題で、相手の方を嫌な気持ちにしてしまったかと思いますが、話の成否などは置いといて、否定的な問題があり、それと向きあうだけでは私のような者は何も進展しません。ただやりたいことをやり、その過程で障害になることに対処する、その方法しかありません。人、それぞれですが。それで、過剰に反応してしまいました。
話、変わりますが、先日ニュースで、ダライラマが中国に対して情報の透明化を要求した、と報じられました。自国の利益のために都合の悪い情報を隠蔽することに反対しているだけでなく、ダライラマ自身の中に、情報の相対化(造語です)があったのではと思いました。情報は、ただの対象として意味を持たない物であるなら、それを解釈する側は勝手な妄想だけを抱くことになります。そこで、情報が透明化されたなら、(何故か!)情報は正しく理解されると思ってます。オリンピックの議論にしても、ただ多数の意見の方が客観性を持ち優れているだけではないはずだ、と思ってます。で、そういう正しく情報の伝わる、情報を等身大に伝えられる伝達手段が好ましいかなあ、と勝手に考えたのでした。
あと、そうですね。仏教にかんしては、底が見えましたよ。勝利は手にした。つまり、教団なんか必要でないということが見えた気がしてます。役割は果たしてるはずですが、問題を一般化できて、禁欲的・または独善的な教団は必要ないのではないかと。それで、静寂の中、お坊さん方の集まりの折、清楚な奥さんがお茶を出しに来る。その時、パンティまる見えのコスプレ軍団に現れてもらったら、緊張感もほぐれるだろう、と救われたわけです。
長々と失礼しました。当分、書くこともないので安心してください(笑)。
えっと、ミクシイで、なんでもあり(名前)蛮頭大虎(ニックネーム)でページがあります。
投稿: 大虎 | 2010年3月 1日 (月) 20時44分
岩谷宏さん、ここに居るんですね。
投稿: LOW | 2010年3月16日 (火) 23時50分
今も掲示板で、自分ともう一人の方とで意見のやりとりをしているのだけど、これが面白い。内容は関係ない。二者の立ち居振る舞いが面白いと思うのである。現実の振る舞い。これを、仮に「コミュニケーションの現実の場」と呼んでみる。そこでは現実のコミュニケーションによる振る舞いが一目瞭然である。
そこで、コミュニケーションの現実を知ることを通して、現実への気付きの契機となり得るのではないか。
それならば、普段の現実生活の中で何故、ありのままの現実に気付かないのか、という疑問だけど、不完全なメディアとの対比によって気付くことが可能だからではないだろうか。雑誌等でも、対論形態の掲載があった。そこでの情報が正確に理解されることはあっても、だからといって「コミュニケーションの現実の場」を知ることはなかった。何故だろうか。そのメディアは対論者の情報しか掲載できない、つまり、権威的メディアでしかないからだ。そこでの情報は固定された対象として読む側にとって自分勝手な妄想と化す可能性がある。一方、掲示板では固定されない。何故だろうか。その理由を、仮に「論理的可能性の現実」と呼んでみる。情報は常に無限の可能性の中で発せられる。次にどんな展開になるのかわからない。次の瞬間、立場が逆転しているかもしれない。つまり、可変的な論理性の場なのだ。そこでは自己正当化のために他の可能性を否定し情報を占有することは不可能である。以前に全公開とか抽象的に全メッセージが交わされる空間などと言っていたことは、そういうことだった。固定的な場から「論理的可能性の現実」への転換によって、妄想や思いこみが解消されて、更には現実への気付きとなる。
やはり、答えはシンプルだった。
(2010.9.20)
途中からのコピペですが、公開に関する自分なりの答えが出たので御報告まで。
こう考えてみても、ソフトのこと全然わからないけど、ソフトの世界ではリナックスで良さそうですよ!
投稿: ootora | 2010年9月20日 (月) 23時05分