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2010年2月16日 (火)

国母選手

個人技スポーツにかぎらず、自分の表現をする仕事では、どのタイミングでどんな服装(などのスタイル)をするかが、自分の気持ちの持ってきかたの過程で重要な場合がある。とくに今回の冬季オリンピック日本選手団のユニホームでは、首を締め付けるネクタイが問題だろう。

というわけで、記者会見の席で国母選手がしおらしく反省(などしていないくせに!)の言葉を述べるよりは、例によって愚かなマスコミの愚かな記者たちを嘲り罵倒するような発言をしたほうが、かなりの数の日本人の胸がスッとしただろう。本番の結果も、そのほうが良かったはずだ。

でも、はっきり言って、オリンピックというものは今や完全に、仰々しい欺瞞だ。

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2010年2月10日 (水)

トヨタプリウスの問題

今の自動車メーカー企業は、半分は自動車という金属製機械のベンダ、半分はコンピュータのソフトウェアのベンダである。ソフトのベンダであるという部分はしかし、トップも役員も管理職も現場も、まったく自覚していない。

で、自動車のような古典的で標準的な機械…どこ製の車でもすぐにふつうに運転できる…と、コンピュータのソフトウェアは、『売り方のセンス』が全然違うものである。そこを自覚しないかぎり、今回のプリウスのような問題は、車載システムの複雑化繊細化の進展とともに、今後続々と起きる。

ソフトウェアシステムの売り方で、何よりも、ずば抜けて重要なのはドキュメンテーションと、その充実によるユーザ教育である。たとえば、あの、Windows、Excel、Wordの書籍の氾濫ぶりを見よ!*。 ドキュメンテーションの中でもずば抜けて重要なのが、コメントの充実したソースコードである。ユーザドキュメントを書くサードパーティのドキュメンタリストや、おなじく町のサードパーティのメンテナなどは、ソースコードを見て、「ああ、こいつはこんな処理ロジックなのか。おお、ここにこんなif文があるのか」なんてことを、知ることができなければならない。ソースの企業秘密なんてことを、優先させてはいけない。

〔*: Microsoftは伝統的にドキュメンテーションを怠けているけしからん企業だ。だから、Word本、Excel本などが氾濫するのだが。〕

「ブレーキまわりは、これこれこういう理由で、こんなロジックになっている。だから、これこれこういう使い方をしてくれ」という…まさにソフトウェアの使用に関する!…ドキュメンテーションとそれに基づくユーザ教育が最初から徹底していれば、今回のような大きな企業ダメージはまったく起きていない。

最後にもう一度言う。シンプルで標準的な機械と、コンピュータのプログラムとでは、売り方のセンスが天と地、地と天ほどにも違う。早急に自覚して、対応を取るべきである。

#そもそも、問題の発端となっているABS(anti-lock brake system)は、ASB(anti-skid braking)とでも改名したほうが、“ユーザ分かり”がよいと思われる。雪道や凍結道路に慣れているドライバーの、高等ブレーキング技術を、コンピュータソフト化しちゃったのである。それでいて、ドキュメンテーション〜ユーザ教育がまったくないのは、完全な無茶である。リコール後は、ASBは「人間の体の技術」へと里帰りし、ソフト開発に費やされた努力は無と化す。…いいことじゃないね。


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2010年2月 7日 (日)

21世紀の巨馬鹿: “地デジ”

「地デジは第二の戦艦大和」説は、100%、120%、1000%正しいと思うけど、未だにだーれも知らん顔をしたまま、揺るぎなき既定事項として有無を言わせず進行していく(アメリカなどにおいても)。

これはたとえば、自動車の普及初期に、馬車屋組合や駕籠屋組合が強力な権力を持っていて、自動車も走れる道路を造るとき、幅広い馬車レーンや駕籠レーンを必ず作らせたという架空のお話とよく似ている。馬車屋や駕籠屋を再教育して、自動車を活用する事業者に仕立てることを、そのときの政治は、やらなかったし、やろうとしても完全に拒否されただろう。

戦艦大和==巨大で巨額の廃品にならない正しい道は、テレビ放送もインターネット上のone of contentsにしてしまい、ついでにインターネットの太さを今の10倍ぐらいにしてしまうことだ。インターネットに乗ってしまえば、従来の、単なるコンテンツ一方的垂れ流し屋から、対話的参加的なサービス〜アプリケーションに進化する道も開け、戦艦大和のように海の底でぶざまに野垂れ死にすることもないだろう。

地デジのデジタルデータの、もうハシにもボーにもかからん愚昧性は、デジタルデータの最大の魅力と文化性と未来性であるところの、データ形式の標準性互換性をベースとする、プログラミングフレンドリ性がまったくないことだ。人びとのアイデアと創意が無限に作り出す、さまざまなプログラムから、それを操作加工して、多様なマッシュアップなどもして、新しいより魅力的なコンテンツやサービスをクリエイトしていける道がまったくない。つまり地デジには、コミュニケーション文化としての「明日がない」。硬い、割れない、永遠に孵化しない卵。それが日々、消費者の顔へ石ころのように放擲される。あるいはそれは、馬車屋や駕籠屋のような規制権力が、自分のために掘った墓穴である。

今テレビ各局は、視聴者へのメリットもデメリットも何も説明しないという傲慢無礼のまま、地デジへの移行を強制している。自分の墓を掘ることは、そんなに脇目もふらず夢中になれるほど、楽しいことなのか。

今でも、天気予報とニュースの一部を除いてはテレビは99.9%くだらないと感じているから(今すでに、ほとんど腐っている)、地デジへの移行はテレビへのbye byeのよい契機となるだろう。今およびこれから、人間がフルにかつ多様に創意を揮えるのは、従来的マスメディア(一方的コンテンツ垂れ流し業)ではなく、インターネットの上だからな。

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2010年2月 5日 (金)

教室内に児童たちのコミュニケーションを持ち込む授業スタイル

この記事は、コミュニケーション学の視点からも必読。おひまなおりに、ぜひ。

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節分の豆まき

×「福は内、鬼は外」
○「内にも外にも福、そうすりゃ鬼はどこにもいない」
…日本人がコミュニケーション下等人種から上等人種に成長するために。

#とにかく、「鬼は外」は世界に対して恥ずかしいから、来年から日本中すみずみで、言わないようにしてほしい。それとも、あんたら、“外”(広義の環境)を鬼だらけにする気か??

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