続・自然の自然な一部としての死
(この記事の前編はこれです。)
先年、80ウン歳で亡くなった親族の葬式に出たことがある。葬式というものは大の大の大のニガテだが、その人の故郷が富士山麓の町なので、行く途上、高速を走る車の窓から至近距離の巨大な富士山を見ることができた。下の方の、横に広がる緑のすそ野も分厚くでっかい、その上の富士山本体もでっかい。視界全体をどぅわっと富士が占めている。
で、その人の死は、悲しいことでもつらいことでも惨めなことでもかわいそうなことでもなくて、この目の前の富士の光景のように、有無を言わせず、どかーんと、美しく堂々たる自然そのものだ、とそのときわたくしは強く明瞭に感じた。彼は生者としての役割を終え、大自然へと帰ったのだ。それはそこでは、この圧倒的な富士山なのだ。
地震も、自然の、ごく自然な一部だ。地球も、ときに身震いぐらいはする。そのとき、いくつかの生物を巻き添えにすることもある。そんな現象も、自然の自然な一部だ。ハイチの自然も、その海もその山も、きっと壮麗で美しいだろう。死は自然の自然で当然な一部として当然あるものだから、それを肯定視する“死観”というものが、いずれグローバルスタンダードになるといい。
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