« COP15失敗 | トップページ | 絶望の哲学 »

2009年12月28日 (月)

天皇制の弊害

(1)人格虐待である
虐待のベースには無関心や無感覚がある。意識的意図的な虐待というものは、あまりない。自分の子どもを「厳しくしつけている」と思っているし、「がんばって生きるのよ」とはげましつつ子猫を捨てる。

そもそも今の日本人の圧倒的多くにとって、天皇とか皇室というものは「どうでもいいもの」である。それがまさに、虐待への加担だ。あなたの名前が仮に山田洋介だとしよう。「どうでもいい」「山田洋介」とは、どういうものか?。しかも天皇の場合それに輪をかけて、宮内庁(等)から無根拠で無合理な、わけわからん規制の枠をはめられる。

イギリスでも、最近、チャールズがちょっと今の政治の一部に注文をつけるような意見を述べた。それだけで、「政治への介入だ、けしからん!」となる。ばか、誰だって意見言う権利ぐらいあろーが!。

というわけなので、天皇制を廃止し、雅子さんとダンナをはじめとして、自由な平民にしてあげるべきである。このままだと、「適応障害」は治りません。まともな人間の誰が、あんな世界に“適応”できると言うのか!。あほも休み休み言え。この奇妙で無神経な病名レッテルもまさに、人格虐待の一環にほかならない。

人格虐待をやめることは、日本人のグローバルコミュニケイティブ化へ向けての、避けて通れない重要な責務である。

(2)お上(おかみ)依存の象徴的固着
日本人の長年の宿痾であるコミュニケーション忌避([参考URL])を解消していくためには、『上(うえ)』、『お上(おかみ)』に問題解決を託す根性をやめて、

自分自身と自分の『横』を見る

根性と習性の育成が急務である。

これまでの、上なるものの至上の象徴たる天皇がいなくなることは、上を見てもそこにはもうなにもないから、横を見る、隣人とフレンドリにコミュニケーションしていくことの基本的精神的ベースになるのである。

ただし、天皇がいなくなることが、そのために必要なことのすべてではない。

が、その社会的工事のための、重要な礎石であることは間違いない。これまで、何千年ものあいだ、上にどかっとあったものが、なくなること、いなくなること、空無になることが、新日本人作りのための無としての、空としての、礎石である。今の天皇は象徴であるから、その空無化はまさに象徴的に重要である。

そして究極的には、今の上下階層構造としての社会構造が、ヨコヨコ社会に変わっていくことが重要だ。

補遺:久しぶりに書店へ行った。イスラム教について大学のセンセらが書いた本がいくつかある。でも、そんなもん読んだって分からんて!。インターネットの上で、全公開フォーラムの上で、イスラム教徒らがそれぞれ「個人」として、くっちゃべってくれたら、そこでやっと、私たちは、人間の宗教、生活の宗教としてのイスラム教をリアルに理解していくだろう。それが、ヨコヨコ性の典型例である。大学のセンセ→しもじもの読者は、お上(おかみ)的階層構造のみじめな残滓にすぎない。

【追記】天皇というものに対する人格虐待(人格侮辱、人格軽視、人格否定、人格の宙ぶらりん化)の起源は、かつての侵略戦争の責任を取らせなかったことにある。そしてこのことは、日本人全体が、誰もが、責任を自覚していないという現状につながっている。あるものは、ぬけぬけとした、被害者づらのみ。そこに、日本人の今日に至るまでの、醜い、成長停止の根源がある。コミュニケーション能力(そしてコミュニティ形成能力)を欠いた、矮小な「私人」たちの集団。でも、その抜本的な改革は、これからでも決して遅すぎることはない。

|

« COP15失敗 | トップページ | 絶望の哲学 »

コメント

一分弐分四式考案ずれば
(1)人格虐待
個人性格加虐待遇
人間に虐を遇するのか人格を加虐するのか
(2)お上
上下じょうげをかみしもといふなり、さらには三人称格に上げつらい、なにげに何事かを仮託せしむ
「うちの上さん」を信ずるが如し

投稿: tenzin | 2009年12月29日 (火) 01時33分

かつて、愛子様に皇位継承権があるかどうか、のような、議論が熱心にされたことがありますよね。

女系はありか、どうか、のような。

それは、愛子様が成人するなり、大学を卒業するなりして、一人の人格を持った大人の女性として、自分の意見を言えるようになった時点で、その当事者の愛子様の意見を聞いてから、それから色々とみんなが考える、というのが、どうも本筋のような気がしますが・・・。

投稿: 深谷満彦 | 2010年2月22日 (月) 22時27分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 天皇制の弊害:

« COP15失敗 | トップページ | 絶望の哲学 »