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2009年12月31日 (木)

絶望の哲学

宇宙(など、要するに“外”)は、真のフロンティアではない。
人間が、この小さく弱い人間自身へと戻ること、それが絶望の哲学だ。
無限の(ように思われる)「外」への希望を廃棄するのだ。

人間にとって唯一最大の真のフロンティアは、人間自身だ。唯一の実在であり唯一の神秘が「自己」だ。しかもそれすら、夜落ちる一枚の木の葉にすぎない。しかし、その絶望に居座ってそこから始める。歴史をゼロから作り直す。かぎりない、謙虚の中で。
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I could feel at the time
あのときこう感じた
There was no way of knowing
それを知る方法はないと
Fallen leaves in the night
夜落ちる木の葉
Who can say where they're blowing
はどこへ飛ばされていくのか, 木の葉たちは
As free as the wind
まるで風のように自由だ
Hopefully learning
できれば学んでいると思いたい
Why the sea on the tide
海の潮流が決して
Has no way of turning
元へ戻れないのはなぜかを

More than this - you know there's nothing
これ以上のもの - そんなものはないね
More than this tell me one thing
これ以上のもの - あると思うなら言ってみて
More than this ooh there is nothing
これ以上のもの - ああそんなものはない

It was fun for a while
しばらくは愉快だった
There was no way of knowing
それを知る方法がないことが
Like a dream in the night
まるで夜見る夢のように
Who can say where we're going
これからどうなるのか誰にも分からない
No care in the world
誰もがひとりぼっちで頼れる人はいない
Maybe I'm learning
どうやら分かってきたようだ
Why the sea on the tide
海の潮流が決して
Has no way of turning
元へ戻れないのはなぜかを

More than this you know there's nothing
これ以上のもの - そんなものはないね
More than this tell me one thing
これ以上のもの - あると思うなら言ってみて
More than this no, there's nothing
これ以上のもの - ああそんなものはない

More than this - nothing
これ以上のもの - それはない
More than this
これ以上のもの
More than this nothing
これ以上のもの - それはない

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2009年12月28日 (月)

天皇制の弊害

(1)人格虐待である
虐待のベースには無関心や無感覚がある。意識的意図的な虐待というものは、あまりない。自分の子どもを「厳しくしつけている」と思っているし、「がんばって生きるのよ」とはげましつつ子猫を捨てる。

そもそも今の日本人の圧倒的多くにとって、天皇とか皇室というものは「どうでもいいもの」である。それがまさに、虐待への加担だ。あなたの名前が仮に山田洋介だとしよう。「どうでもいい」「山田洋介」とは、どういうものか?。しかも天皇の場合それに輪をかけて、宮内庁(等)から無根拠で無合理な、わけわからん規制の枠をはめられる。

イギリスでも、最近、チャールズがちょっと今の政治の一部に注文をつけるような意見を述べた。それだけで、「政治への介入だ、けしからん!」となる。ばか、誰だって意見言う権利ぐらいあろーが!。

というわけなので、天皇制を廃止し、雅子さんとダンナをはじめとして、自由な平民にしてあげるべきである。このままだと、「適応障害」は治りません。まともな人間の誰が、あんな世界に“適応”できると言うのか!。あほも休み休み言え。この奇妙で無神経な病名レッテルもまさに、人格虐待の一環にほかならない。

人格虐待をやめることは、日本人のグローバルコミュニケイティブ化へ向けての、避けて通れない重要な責務である。

(2)お上(おかみ)依存の象徴的固着
日本人の長年の宿痾であるコミュニケーション忌避([参考URL])を解消していくためには、『上(うえ)』、『お上(おかみ)』に問題解決を託す根性をやめて、

自分自身と自分の『横』を見る

根性と習性の育成が急務である。

これまでの、上なるものの至上の象徴たる天皇がいなくなることは、上を見てもそこにはもうなにもないから、横を見る、隣人とフレンドリにコミュニケーションしていくことの基本的精神的ベースになるのである。

ただし、天皇がいなくなることが、そのために必要なことのすべてではない。

が、その社会的工事のための、重要な礎石であることは間違いない。これまで、何千年ものあいだ、上にどかっとあったものが、なくなること、いなくなること、空無になることが、新日本人作りのための無としての、空としての、礎石である。今の天皇は象徴であるから、その空無化はまさに象徴的に重要である。

そして究極的には、今の上下階層構造としての社会構造が、ヨコヨコ社会に変わっていくことが重要だ。

補遺:久しぶりに書店へ行った。イスラム教について大学のセンセらが書いた本がいくつかある。でも、そんなもん読んだって分からんて!。インターネットの上で、全公開フォーラムの上で、イスラム教徒らがそれぞれ「個人」として、くっちゃべってくれたら、そこでやっと、私たちは、人間の宗教、生活の宗教としてのイスラム教をリアルに理解していくだろう。それが、ヨコヨコ性の典型例である。大学のセンセ→しもじもの読者は、お上(おかみ)的階層構造のみじめな残滓にすぎない。

【追記】天皇というものに対する人格虐待(人格侮辱、人格軽視、人格否定、人格の宙ぶらりん化)の起源は、かつての侵略戦争の責任を取らせなかったことにある。そしてこのことは、日本人全体が、誰もが、責任を自覚していないという現状につながっている。あるものは、ぬけぬけとした、被害者づらのみ。そこに、日本人の今日に至るまでの、醜い、成長停止の根源がある。コミュニケーション能力(そしてコミュニティ形成能力)を欠いた、矮小な「私人」たちの集団。でも、その抜本的な改革は、これからでも決して遅すぎることはない。

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2009年12月21日 (月)

COP15失敗

トレードとその成功とその盛大化が国民と国家の生命線であるかぎり、この種の試みの失敗はやる前から当然であり、すでに財のゆとりのある少数先進国がどれだけがむばっても無駄である。中国(など)の今日と明日の活力は、ひとえにトレードの盛況にかかっている。

しかし、環境に対してよりもむしろ人間とその社会に対して、トレードが最上位の規範である国家社会やグローバル社会は、本質的な粗放さをその基調とせざるを得ない。それは一種の野蛮社会であって、人間的文化的でない。貨幣の価値とは、差異の大きさだからである。トレード至上社会は、粗暴な犯罪をはじめ、ありとあらゆる悲惨を内包せざるをえない。

トレードの克服、トレードの対象化、トレードの相対化、meta-trade principle、…そして、トレードよりも良質で幸福な生活が提示されないかぎり、COP15のような試みの成功は今後もありえない。すでに財のゆとりを今現在持つ国や人びとがリーダーシップを取るべきは、むしろこの方面でなければならない。

中国だって、多くの人が、しょうがなくて日々のトレード行為にいそしんでいるにすぎない。本当の幸福はここにはない、と深い本音の部分では感じているはず。

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2009年12月15日 (火)

ま、それでも(天皇の人間化、続き)

今の日本やイギリス(など)の皇室制って、一種の人格虐待ですよ。その先鋒にいるのが、日本の場合、宮内庁じゃないの。しかも特定の省庁や特定の役人の問題では必ずしもなく、制度それ自体の問題でもある。(ま、もっと人間性に富んだ宮内庁長官が出てくれば、ご一家もすこしは呼吸が楽になるかもしれないが。)

かつての岡田外相の発言(10月下旬)も、「もちょっと人間らしい言葉をしゃべったら」という素朴な思いではないの? それ以上にも以下にも解釈してはいけないと思うが。でもそれは結局、今の制度下では、無いものねだりになる。

雅子さんのだんなさんの、宮内庁への怒りも、どうやら空振りに終わってるようだし、彼女の神経症は治らないし、このどうしようもない事態を、しかし、どうにかせんと…。

今回の「30日ルール」の問題だって、かんじんの当事者(天皇自身)の情報や発言は、まったくメディアに出てこない。ここにもまた、同形の抑圧と人格虐待があるような…。

共和制移行へ、最大の理解を示すのが、意外と雅子さん夫妻だったりして。

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2009年12月14日 (月)

天皇の人間化, 共和制への下地

「天皇の政治利用じゃ」なんて騒ぐ根性こそが、天皇の政治利用でっせ! しかも、デジャヴュのごとくに超古めかしい、きもちわるい。

その日元気でひま…他の重要日程がない…でその人に会いたくない気や事情がないなら、会えばよろしがな。ふつうの、人間のように。

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2009年12月13日 (日)

「西欧」とその「他者」

アフガニスタンの荒野の風景は、すさまじく美しいという。神の居場所のように。現地はおろか写真すら見たことはないが、写真を見て納得するべきものでも、いや、写真でキャプチャできるものでもないだろう。タリバンもアルカイダも同じく私は知るすべもないが、西欧のmediocreな(ある意味薄っぺらく半端でおめでたい)--トレード優先の--価値観を受け入れられない人びとが地球上各所に少なからずいることは理解できる。

(トレード優先・至上・強迫社会は、必然的に疎外と格差の社会である。)[参考URL]

西欧はまだ、その他者とまだ出会っていないのではないか。let alone, ましてその他者との真摯なコミュニケーションなど…。オバマの3万(+NATOα)増派が、この大きなコミュニケーションの重傷の、良質なソリューションに導くと、一体誰が、信じられるのか?

このままだと、癌が転移するように、この傷は西欧の内部各所に転移し広がるのではないか。それが、オバマらの招く、究極のアンチソリューションではないのか。

悲惨がこれ以上深刻化する前に、西欧的世界(今の日本も含む)の上部構造の頭と心が、もっと優秀になってほしい。

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2009年12月 9日 (水)

Knockin' on Heaven's Door解題

Knockin' on Heaven's Doorは、もうあと数秒でぼくは死ぬみたいよ、という意味。死は「自己」というものの孤独を、するどく厳しく際だたせる。だれかと一緒に死ぬことはできないし、死が魂の旅立ちとすれば、その旅路を激励喝采してくれるギャラリーもいない。そのような絶対的孤独が、コミュニケーションのベースであり核だ。

そしてそういう純粋に裸の自己には、(副保安官の)バッジも銃も要らない。用がない。バッジに象徴されるものと銃に象徴されるものに支配され、またそれらを使用するのが「孤独忘却」の日常における人間どもの所業。

バッジも捨て、銃も捨てた、はだかの、純粋孤独者同士としてのみ、コミュニケーションできるし愛し合える。この曲が無慮何十人ものアーチストによってカバーされている人気曲であるのは、このような『純粋性』がその理由である。

私見では、ベストはB.Ferry(すべての音が言葉をだいじにしている)、次位はA.Lavigneのスタジオ吹き込み録画(彼女の**唯一の**ベストトラック、アホなアイドル歌手が唯一最高に真剣に歌った曲)、最悪はE.Clapton(表現者の資質ゼロ)。

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2009年12月 7日 (月)

「天国への扉」はあまりにひどいね

私は幸か不幸かホモっけはない人だけど、Oliver Thompsonのきれいさを見たさにDylanesqueのビデオをたまに見る。ルックスだけじゃなく、なにからなにまできれい。そのきれいさの内部には、こちらの心をシーンと静寂にすると同時に、なにかはらはらドキドキさせるものがある。

(Bryan Ferryの18歳ごろの顔にも、これと共通した、こわれもののようなすごいドキドキのきれいさがある。)

All Along the Watchtowerも良いが、Knockin' on Heaven's DoorではOliverの横顔のアップも映る。完全に、少年ないし子どもの顔だ。これも、はらはらドキドキするぐらいきれい。

で、最近ネット上で気づいたのは、Knockin' on Heaven's Doorの邦題が「天国への扉」であることだ。まあ、至る所で見る日本人の没理念没人間没コミュニケーションのいいかげんさの典型だが、なにしろ、訳としてあまりにひどすぎる。

あえて私の訳案〜邦題案はここに載せないから、多くの案を、みなさまからのコメントに待ちたい。また、一般に、「トレードを克服した真のコミュニケーションのための基盤となる知見」を模索するこのブログは、コメントによって展開のあるものであってほしい。「小学生のための貨幣論入門」でも、なんでもいいから、なにしろ、多くのかたのコメントによって多面化立体化していくことが望ましい。

私は本気で日本を共和制にして、完全なケアフリー社会にしたい。

temlin/tenzinみたいな、舌足らずで理解不能なコメントは困りますが。

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