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2009年9月21日 (月)

問題への窓としてのマルクシズムとナチズム

マルクシズム(とそのさまざまな枝葉)とナチズム(とヨーロッパのユダヤ人問題一般)を、それぞれ、何かの問題への欠陥多き「解」であったり、単純にとんでもない「悪」であると見るのではなく、ああいうものの登場とある程度の勢力化という歴史的事実を、ヨーロッパ的社会(==今日のほぼ世界標準)が持つ大きな欠陥、空虚空洞、大メタ問題の、風、うめき、ぶきみな“影”、それをそれとなく知らせてくれる“感触”として見るところから、その向こうに、コミュニケーションという大課題が展望されるはず。

ヨーロッパのクラシック音楽の、いわゆるロマン派(とそれ以降)は、全然肯定的な関心は持てないのだけれど、そこには、ヨーロッパ市民社会におけるその「問題」の徐々たる重症化の歩みが感触される。逆に、その直前…モーツァルト, ベートーヴェン…は、市民革命とその前後のいわば「未定期」にある。植民地主義+産業革命を重要なマイルストーンとするヨーロッパ市民社会の腐壊と悲劇はまだ始まっていなくて、無色で正体不明な理想や理念だけがある。まだ何も決まっていない、という意味での“未定”。そこは、永遠に凍結されているピュアな「スタートライン」だ。
#ロマン派音楽は一言で言うと「個の鬱屈のn乗深化」かな。個が、外へ向かって、あかるく“ポップに”はじける機会がないのだな、ヨーロッパ的近代は。それはまだ、過去形で語れる名詞ではないが。

やがてそれ(未定期)は、良質なガイド不在のまま、腐壊と悲劇へ向けてゆっくり歩き始める。

ヨーロッパ文化文明(==今日のほぼ世界標準)のその大欠陥をあえて一言で言うなら「あなたがたの基本宗教に(ネイティブ共同体から切り離された)『個』があるのは強い。しかしあなたがたの基本宗教には『他者論』、『関係論」、『コミュニケーション視点」が完全に欠落している」でいいだろう。

マルクシズム(とそのさまざまな枝葉)もナチズム(とヨーロッパのユダヤ人問題一般)も、その欠落の上でこそ芽生え育った黴(カビ)である。だからそれらは、真の問題を暗に示唆している「窓」なのだ。

#私のマルクス読書なんて、何十年も前で、しかも不真面目いいかげんだから、うろ覚えで言うしかないが、けっこう随所に"ユダヤ人非難/軽蔑"ってあったよね。マルクス本人もしかし、ユダヤ人じゃなかったっけ。真の敵はおのれたちのコミュニケーション不能であるのに、ユダヤ人、商人、金貸し、資本家と、見当外れな仮想敵ばっかし作ってるから、かえっておのれをいやしくし(まず真っ先に自分がマモン神へのみささげものになってしまい)、症状はさらに根深くなっていくのだ。

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2009年9月13日 (日)

猫飼い後悔(その2)

文京区の小暮動物病院の院長先生が書いた本には、「1日に最低30分、猫と遊んでやる時間のない人は、猫を飼う資格がない」という意味のことが書かれている。遊びは、猫の人生にとって食う寝るの次ぐらいに重要な要件である。

猫が5匹ぐらまでのころは、毎日けっこうたっぷり遊んでやれた。複数の段ボール箱で立体迷路を作ることすら、何度でもできた。でも常時30匹近くいる今は、食事、トイレ掃除など、最低限の世話だけで相当時間がかかり、十分に遊んでやれない。そのことがたいへん、心が痛む。子猫を保護したときだけは、なんとか遊んでやることを心がけるが、十分とは言えない。

で、共働きなどで、猫遊びの時間を十分とれない人は、兄弟姉妹や、あるいは仲が極端に悪くはない、複数の猫を最初から飼うことをおすすめする。昼間人がいないときでも、猫同士でけっこう遊べるから。犬についても、それは言える。

とにかく、これ以上、犬や猫をそこらに捨てないでほしい。犬猫がかわいそうなだけでなく、われわれのように見て見ぬ振りのできない者が、十分な世話もできず、苦労するんだから。

[猫飼い後悔(その1)]

(090914追記)でも、保護する人間がもっと増えればいい、という「解」はありえないよね。それだと実質的に、遺棄行為の社会的公認になってしまう。やはり、われわれのコミュニケーション努力によって、「捨てない」「避妊去勢をする」が思想および慣行として普及するのを待つしかない。私の住む住宅地でも、メッセージポスターを公園等に貼りだす努力を数年続けた結果、1990年代後半のひどさに比べると、最近はずいぶん鎮静してきた。たとえば、前は捨て猫変じての野良猫だらけだった少年野球用グランドの周辺やスーパーマーケットの裏手は、今はまったくいない。周辺地区を含めて、まだ、きれいさっぱり皆無とはいかないのが残念だが。

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トレード執着は損失を再生産し続ける(2)

ハトヤマさんの25%削減説に対して、経営者たちは、そんなことしたら企業の経営が成り立たないと主張している。しかし、企業の利益は、「外部不経済」に対して責任を取らない、あとは野となれ主義の上に生じているのだから、とうてい、肯定できるものではない。

排気排熱の完全回収などにより当事者企業が責任を取ったら、その利益はたぶんゼロまたはマイナスとなり、いずれにせよ経営は成り立たないのだ。

だいたい、今のトレード至上社会を温存しつつの環境保護論議は、はなっから眉唾くさくて、ほとんどの人が「うまく行かないよ」とあきらめ感を持っているのではないか。だって、トレードで利益を確保するためには、外部不経済の責任を放棄しなければならないんだから…。さて、最終的にどうなりますことやら、環境とその中の生き物たち(ヒトを含む)の運命は。

みずからの労働力しかトレード財を持たない一般庶民も、(主に自身の健康や家族に対して)さまざまな外部不経済を生成していることは言うまでもない。

[トレード執着は損失を再生産し続ける]

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2009年9月 6日 (日)

猫飼い後悔(その1)

ときどきテレビなどで山猫の生態を見ても分かるが、猫は集団を作らない。ライオンという大型猫は一見、集団を作るようだが、あれはたぶん「家族」の一種だろう。

というわけで、売れ残り猫(もらい手がないまま大きくなった猫)が増えると、不本意ながら過密飼いになってしまう。猫にとっては、イヤな生活環境である。部分的に、喧嘩が常習の猫関係も生じてくるし、彼らの自然に反した猫関係のストレスから、肥満猫や、FUS(猫の泌尿器系症候群)になりやすい猫も複数いるようになる。

適度な複数飼いは、とくに問題なくうまくいっている例が多いが、一室における過密飼いは猫が絶対に望まぬ生活形態である。

喧嘩癖のひどい猫関係は、部屋を別にしたり、一部ケージ飼いにしたりするが、それはもちろんスペース的にも労力的にも限界がある。ゆえに、過密状態のうまい解消方法は思い当たらない。

さて、人間という動物は必ず集団を作るが、その主体性の形としては、「一匹の猫」==「一つの人間集団」にほぼ相当する。だが、複数の人間集団同士は接触の機会が多くて…両刃の剣のような…戦争とトレードが常習化するが、野生の猫同士のトレードや死にものぐるいの喧嘩はあまり聞いたことも見たこともない。つまり、猫にとっては、コミュニケーションは重要課題ではなく、人間にとってはそれが慢性的に焦眉の課題だ。だが、戦争やトレードにうつつをぬかしてる間は、課題であることが自覚されない。

コミュニケーションが課題ではない生活様式を本来持つ猫という動物を、一室に多数収容するのは、広義の動物虐待に相当するかもしれないが、どーにもこーにもしょうがないとしか言いようのない日常だ。

対して、集団と集団でトレードしたり戦争したりする生き物であった人間は今、うちの猫たちのような過密化とは正反対の、『個化』しつつある(まさに戦争とトレードの歴史的culminationにおいて!)。これも、うちの過密猫たちと同様の、一つの種にとっての、ミゾーユー(==無能ソーリの“未曾有”の読み)の生活形態である。『個』は、戦争にもトレードにも適性と耐性がない、このことは、本ブログにも、またその前身である「コミュニケーション有能への進化」と題するエッセイ集にも、何度も書いてきた。

『個』はむしろ、戦争とトレードをやめるため、それらをやめた新しい生活形態の人類のはじまりとして、それが生きるための空気がまだまだたいへん希薄な、現世界に出現したのだ、と見るべき。従来のネイティブの集団(共同体)〜集団関係とはまったく異なる、個たちのコミュニケイティブな社会形成が、未来への期待の核になる。としか言いようがない。

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