問題への窓としてのマルクシズムとナチズム
マルクシズム(とそのさまざまな枝葉)とナチズム(とヨーロッパのユダヤ人問題一般)を、それぞれ、何かの問題への欠陥多き「解」であったり、単純にとんでもない「悪」であると見るのではなく、ああいうものの登場とある程度の勢力化という歴史的事実を、ヨーロッパ的社会(==今日のほぼ世界標準)が持つ大きな欠陥、空虚空洞、大メタ問題の、風、うめき、ぶきみな“影”、それをそれとなく知らせてくれる“感触”として見るところから、その向こうに、コミュニケーションという大課題が展望されるはず。
ヨーロッパのクラシック音楽の、いわゆるロマン派(とそれ以降)は、全然肯定的な関心は持てないのだけれど、そこには、ヨーロッパ市民社会におけるその「問題」の徐々たる重症化の歩みが感触される。逆に、その直前…モーツァルト, ベートーヴェン…は、市民革命とその前後のいわば「未定期」にある。植民地主義+産業革命を重要なマイルストーンとするヨーロッパ市民社会の腐壊と悲劇はまだ始まっていなくて、無色で正体不明な理想や理念だけがある。まだ何も決まっていない、という意味での“未定”。そこは、永遠に凍結されているピュアな「スタートライン」だ。
#ロマン派音楽は一言で言うと「個の鬱屈のn乗深化」かな。個が、外へ向かって、あかるく“ポップに”はじける機会がないのだな、ヨーロッパ的近代は。それはまだ、過去形で語れる名詞ではないが。
やがてそれ(未定期)は、良質なガイド不在のまま、腐壊と悲劇へ向けてゆっくり歩き始める。
ヨーロッパ文化文明(==今日のほぼ世界標準)のその大欠陥をあえて一言で言うなら「あなたがたの基本宗教に(ネイティブ共同体から切り離された)『個』があるのは強い。しかしあなたがたの基本宗教には『他者論』、『関係論」、『コミュニケーション視点」が完全に欠落している」でいいだろう。
マルクシズム(とそのさまざまな枝葉)もナチズム(とヨーロッパのユダヤ人問題一般)も、その欠落の上でこそ芽生え育った黴(カビ)である。だからそれらは、真の問題を暗に示唆している「窓」なのだ。
#私のマルクス読書なんて、何十年も前で、しかも不真面目いいかげんだから、うろ覚えで言うしかないが、けっこう随所に"ユダヤ人非難/軽蔑"ってあったよね。マルクス本人もしかし、ユダヤ人じゃなかったっけ。真の敵はおのれたちのコミュニケーション不能であるのに、ユダヤ人、商人、金貸し、資本家と、見当外れな仮想敵ばっかし作ってるから、かえっておのれをいやしくし(まず真っ先に自分がマモン神へのみささげものになってしまい)、症状はさらに根深くなっていくのだ。
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