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2009年8月31日 (月)

小学生のための貨幣論入門(スケッチ1-1)

うーんと初期には、何かの物が貨幣の役を果たした。未使用の布、たばこ、金属の鍋、などなど。今でも友だちなどとのあいだで、何かの現物を貨幣(何かに対する代価)として使うことがあるだろう。たとえば、なにかのカードとか。

そういう現物としての貨幣は、「貨幣が稀少財」であることを分かりやすく納得させてくれる。稀少財でないもの、つまり、ありふれている物や、誰でも持ってる物は、貨幣とは認められない。

稀少財は、もらったりすると「ありがたい」物だ。「ありがたい」は「有り・難い」==「有りにくい」==「なかなかない」==「(十分)持ってる人が少ない」という意味。つまり「稀少」。

だから「ありがたいもの」==「なかなかないもの」==「持ってる人が少ないもの」でないと、貨幣になれない。

稀少財が稀少財であるためには、したがって、それを持ってない人がつねにかなり多数いなければならない。世界中の誰もがつねに相当額のお金を持っているなら、お金の貴重感はなく、誰もお金をほしがらない。お金の貴重感がしっかりとあるためには、それを持ってない人、なかなか持てない人が多数存在しなければならない。

持ってる持ってないのいちばん上といちばん下を除いて、その中間の99.99999...%の人はそれぞれ、上に自分よりお金を持っている人たちがいて、下には自分よりもお金をもっていない人たちがいる。お金は「持ってない人が多いこと」が重要だから、この持ってる持ってないの階層がお金の価値、貴重感を支えている。この階層は、(お金=稀少財はそれをうんと持ってる人ほど少ないから)富士山の形のように、下(=持たざる人)ほど大きい(多い)。

いちばん下の、何億〜何十億という数の人たちは、慢性的な飢えと貧困の極地。国連などの努力では支えることのできない悲惨な状況だ。でも貨幣が価値を持つためには、こういう、多数の、持たざる人びとを必要とする。

お金、たとえば千円札をつくづく眺めて見て、これの価値は「千円持ってないこと(や持ってない人)に対する価値」なんだということを、つくづく実感しよう。

そこで結論として、お金が支配する社会(コミュニケーション学の用語では「トレード(trade)支配社会」)は、必ず格差社会である。お金を持ってることの価値は、持ってないことや持ってない人に対して成り立っている。

だからこそ、人類(と環境)の悲惨な現状を解消するためには、トレード支配社会からコミュニケーション支配社会への移行が必要なのだ。

(090921: 部分加筆)


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2009年8月21日 (金)

トレード執着は損失を再生産し続ける

これは、どこまで一般化できるか、まだよく分からない「理論」なんだけど、そもそも、社会の<トレード至上幻想>と個人や家族等における<トレード強迫>に支配された生産行為は、環境と人間の健康(とくに心の健康)を大きく損ない、その被害の金額換算の大きさは、トレードによって得られる利益の額と、少なくても同額、通常は利益の額よりもずっと大きい、と言えるのではないだろうか。

なんとか一般的に証明してみたい理論:
トレード強迫とトレード絶対至上幻想の下で行われるすべてのトレードの結果は損失である。利益は、実は、ない。

いちばん分かりやすいのは、温暖化ガス排出規制なんてお断り!と主張せざるを得ないインドなどいわゆる途上国〜低開発国の状況だが、“先進国”アメリカ(ずば抜けて世界最大の排出国)などでも、ビジネス人たちは…当然のように…規制に消極的だ。儲け(トレードによって得られる利益)が薄くなることは、やりたくない。そこで、大規模環境破壊・汚染という損失を生み続けるしかない。

あまり知られていないことだが、日本各地で農林水産物の「有名銘柄」の産地も、農地や山林や、海や山の水質等に対する「虐待」の持続の上に産地としてのブランドが維持されているところも少なくない。具体例は控えるが、農地の不可逆的な荒廃のために、今では元々のその土地から遠く離れたところが物理的な生産地になってる銘柄産品もある(そこもやがて荒廃するのだろうが)。

トレードではなく、コミュニケーションが支配する社会においては、環境や健康への損失を生むような『無理』の必要性がない。たとえばトレード商品に必ず伴う<規格>は、実は不要なものだ。サイズ、形、色、味などなどが、商品として成立するほどとびきり上質でなくても、みんなでなんとか工夫しながら、そしてトレード以外の方法(コミュニケーションによる方法)で分かち合いながら食えばいいわけだ。

一例として海の魚を挙げると、産地と消費者が商品性を追求しなければ、けっこうおいしく食える雑魚…いわゆる市場に出せない魚…がいっぱいある。雑魚を分かち合って食べてれば、特定魚種(商品性の高い魚種)の資源枯渇とか、海を汚す養殖などのモンダイはなくなるだろう。

犯罪という社会的人間的損失の多くも、トレード強迫とトレード絶対至上思想が支配する社会風潮が発生因である。トレード支配社会からコミュニケーション支配社会への転換により、犯罪の半減、うまくいけばほとんど全減が期待される。その転換は、これまでにあったどんな革命や社会改革よりも桁違いに難しいが、しかし第一歩は、多くの人がコミュニケーションという問題意識をまず持つことだ。

関連ブログ記事: [トレード強迫からの覚醒][トレード至上幻想] 

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コミュニケーション教育が重要--つづき

先日、「コミュニケーション教育が重要」という趣旨のブログ記事を書いたけど、その具体的なカリキュラム構成や実際の教育技法ともなると、まだ参考例すらない、巨大な課題だ。

仮にその巨大さのスケールを1000とすると、その中の100ぐらいの大きさのサブセクションの、さらにその10ぐらいの大きさのサブサブセクションに該当すると思われる、かすかなヒントが見られる記事を発見した。そのかそけさにもかかわらず、インターネットの上に、こういう問題意識が出てきたこと自体は、特筆に値すると私は思う。

そのモンダイの記事とは、<これ>であります。

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2009年8月12日 (水)

Tシャツその後

[男性用Tシャツ]で、オトコ用Tシャツの地獄の責め苦のごときデザインに不平を述べたが、最近家人が買ってきてくれたUNIQLOのEternal Heroinesというブランドは、女性用でもデザイン過剰でなく、わりとスタンダードで、しかも綿質が良く、気持ちよく着れる。値段も高くないから、あと2〜3枚買おうかな。

猛暑とTシャツの苦痛でアタマにきて、「オトコの光景・パートII」を書こうかといきまいていたが、Eternal Heroinesのおかげでその気も失せた。

イランを見てても、ビルマを見てても、女性的価値*の優勢化は社会の成熟に待つところが大きいという気がする。未成熟だと、どうしても、オトコの暴力とアホオンナの盲従が支配してしまう。日本でもまだまだ、精神貧困&硬直なアホオンナタイプがとても多いし…。でもインターネットは明らかに、ヒトと社会の文化的成熟を促進すると思うよ。だからこそ、劣悪なローカル権力はそれを規制したがるわけだけど。*:戦争をしないこと、トレードを相対視できること、個人をあくまでもそれぞれユニークな個人として見れること、等々。

#ATOKというIMは、ビルマと入力すると、「ミャンマーに地名変更されたぞ」と余計なお節介を言う。これも明らかに、オトコまたはアホオンナのデザインだな。その地名変更は不法な軍事政権の恣意にすぎず、国民も国際社会も認めていないはず。今のあの国の政権は、完全に、不法政権じゃないですか、罪もない自国民をいっぱい殺して…。日本人ジャーナリストまで殺して、知らんふりを決め込んで…。世界史上、ずばぬけて最も悪質なregime(国家政権)だ。[参考記事1][参考記事2]

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2009年8月 8日 (土)

毎度腹立たしい原爆メモリアル

非戦闘員(+非正規戦闘員)〜一般市民の生命被害の規模が特異的に巨大だから、被害者意識をこれ見よがしに勲章のようにぶら下げて、毎年々々盛大にメモリアルをやりましょう、という根性。

一回の戦技行使の生命被害規模がn×10万以上のオーダーだったら、そのときにかぎり、仰々しいメモリアルの特権があるというなら、日本軍が各地で行ったn×1万、千、百、十、いや「一」の犠牲者たちはいずれ、霊として日本〜日本人に対し苛烈なテロ行為を行う権利を有する。(アラブ等のテロの真因・深因が、西欧の一方的歴史的行為の蓄積にあるように。[参考URL]

オバマさんの理屈は、ニュークリアウェポンはノー、バット、通常兵器は全然OK、というものなのかしら。それじゃー、本当の偉人として歴史に名を残せないぜ。

ものごとが、ついに愚かしい戦争へと結実炸裂していく過程の真因・深因は、人民一人々々の愚かしい根性にある。ほんまに、真剣に、廃棄または抜本改定を検討すべきですよ、この実にアホ的に壮大な毎年のメモリアルは。

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2009年8月 3日 (月)

道徳教育よりもコミュニケーション教育のほうが何億倍も重要だ!

コミュニケーション教育を充実した場合のメリットは何百何千とあるが、端的に分かりやすいのとしては、犯罪が半減する。もしくは、“ほとんど全減”する。そしてまた、今後のより本格的なグローバル化経済の中で、日本経済が落ちこぼれにならずにすむ。物作りの優位性はこれからもますます失われていくが、代わって元気な…そして配慮に富んだ…コミュニケーション能力により、世界各地で愛され活躍していける。

コミュニケーション教育は、学校教育(+各種施設教育)が担うのは全体の1/3ぐらいだ、社会教育、家庭教育、地域教育、それに従来型マスメディアとインターネット、などなどあらゆる場とメディアとチャネルがコミュニケーション教育に向けて機能していく必要がある。

コミュニケーション教育を構成する重要基本要素(3〜5つはある)の中で、当面とくに重要なのが、初歩的・基礎的な論理力の鍛錬だ。非常に長年、伝統共同体と階層的権力構造のぬくぬく風呂の中で、“没論理”性(共同体的恣意性)に染まってしまっている今の多くの日本人の脳は、グローバルなコミュニケーションに向けての資質を持っていない。現状の日本人の脳の論理性のお粗末ぶりは、このささやかなブログのコメントにも、すでに2例も見ることができる(「複数性を根拠とする宇宙」「オバマのスピーチはダンサブル」)。

言い換えると、(ごくごくふつうの)論理の基礎を教えることも、コミュニケーション教育の重要な一環だ。実際の会話の中で教えるのが、効果的だろうね。

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ワイトの早逝

犬も猫も、ゼロ歳時初期の生活状態、栄養状態、衛生状態、健康状態等が劣悪だと、その後どんなにだいじにされても、彼らの標準寿命よりもずいぶん前に生命が終わってしまうことが多い。この春から夏にかけては、犬(11歳)、犬(9歳)、猫(11歳)と立て続けにそのケースがあった。

犬2例は、どちらも、里親さんのところでとても愛され、だいじにされていた犬である。そして猫は、8月1日に(早すぎる)腎不全でうちで亡くなったワイトだ。真っ白な雄猫で、ホワイトを略してワイトと呼んでいた。1999年の6月初めに保護したが、ゼロ歳の後半、すなわち1998年の秋子と思われた。人慣れしているので、明らかにもとは家猫の子である。野良の子ではない。

ゼロ歳ですでに猫エイズに感染し、毛はほとんど抜けてピンクの肌が露出していた。猫エイズは、大きな猫との激しい喧嘩の結果(食べ物をめぐる喧嘩)、毛がないのは慢性的な大量の蚤の猛攻の結果だ。保護した場所は、工務店の廃材置き場のような不潔な場所だった。食事は、ごみあさりに依存していたと思われる。

とても気だての良い、気持ちのやさしい、人に甘えたり人と遊ぶことの好きな、良い猫だった。うちで栄養状態が次第に良くなると、ゴールドアイの白猫の、かがやくような美しさがきわだった。エイズ猫は里親さんがまずつかないし、そのほか、いわゆる“売れ残り猫”や犬が、わが家にはたまっていくのである。

でも、亡くなってから私がしきりに思いを馳せるのは、変な環境中に突然捨てられた直後の数日と、それから保護されるまでの毎日の苛酷な生活と、そこにおける彼自身の毎日の気持ちだ。それは言うなれば、毎日続く「とてつもなく底なしに深い不可解さ」だっただろう。[関連記事]

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