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2009年7月26日 (日)

ラン子のご逝去

猫としてはかなりの高齢である20歳で、ラン子が生命を終えた。死は、生きている本人とは無関係に、客観的に、「わたしの知ったこっちゃない」ものとして訪れる。毎日おいしいものを食べて、あとは文字通り寝子としてのんびり暮らしたい。それが最近はなんだかへんだ。食べ物を少ししか食べられなくなり、次はまったく食べられなくなり、さらにその次は水も飲めなくなり、へんだな、いやだなと思ってるうちに、ついに呼吸もできなくなり、突如の「無」。ラン子は最後まで、死というものを自覚も認識もしていない。生には、最後まで、生しかない。死は、生にまったく属していない。

私も2年ほど前の11月上旬、急に寒くなった日に、失神というものを経験した。それも、これから失神するという兆候も自覚も認識もなく(そして、あとでそのときの記憶すらなく)、痛みも苦悩も恐怖もなく、突如完全な無になるだけである。倒れるとき足首をへんにひねっていて、覚醒(たぶん倒れてから2〜3分後)後には何日も痛んだが、失神するときには「あっ、倒れる、足をひねる、痛い」という感覚や認識すら完全にゼロ。だから、倒れることや足首をひねることに対する防御行動はまったく起きない。もう、そのときは「無」だから。

精密検査の結果、どこも異状なく、医者は薬すら出さなかった。何も症状がないから、薬の出しようがないと。インターネットの上でアメリカの医学文献を読みあさってみると、失神の半数近くは原因不明だそうだ。もっと深刻な症状だったら、それは私の死だったかもしれない。

死は、生とまったく関係なくやってくる、客観的な事件だから、生そのものにとっては、とても簡単で単純でシンプルなできごとである。大仰な要素は、何一つない。人類は、死を死にふさわしく遇するマナーを、まだ見いだしていない。[mainURL]


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2009年7月23日 (木)

野良猫をexploitするな!--つづき

本稿はまず、このブログ記事、次にそのコメント、と読んでからお読みいただきたい。

さて、なぜ、野良猫-or 野良犬, 野犬, for that matter-の存在の当たり前視がまずいかというと、それが、遺棄(猫を捨てる、犬を捨てる)の当たり前視の根拠になるからだ。捨ててもいい、という気にさせてしまう。野生生活の能力を持たない犬猫を捨てることは、単なる残酷行為である。

さてさて、ではなぜこのことが、「コミュニケーション学」と関係があるのか?。それは、人類の伝統的な資質であるコミュニケーション不能には、自分・自分の家族・自分の村・自分の企業etc., etc.さえ良ければ、そのまわり(他人、他の生きもの、自然、環境、社会全体、…)のことなんか知らん!どうなってもいい!という、劣悪な哲学が中心的に関与しているからである(参考記事)。

今の学校教育は、進学競争等を通じて、その哲学を奨励している。だから、今やおかしな人間が続々輩出されているのだ。

厄介ものの犬や猫が自分ちからいなくなって、さっぱりする。今の、コミュニケーション不能人種の矮小な脳が持ちうるのは、その認識までだ。その先がない。命に対する想いはおろか、誰かが迷惑するという認識すらない。このようなお粗末な脳を教育していくためには、野良猫(&野良犬)の存在を、当たり前の風景として、あるいは一種のあって当然の風物詩として、肯定視するような表現を、厳罰をもって禁ずるべきだ。どんな罰がいいかな?。たとえば、その映画を見たらどんな馬鹿でも二度と犬猫を捨てる気にならないような映画を作って全国を上映巡業する、という罰はどうだ?。今は、熊本県や山形県などの努力が先駆となって、行政の考え方も変わりつつあるから、保健所等がきっと協力してくれるはず。いちばんつらい、いやな思いをしているのは、毎週大量の、何の罪もない、犬猫を殺さなければならない保健所〜動物愛護センター(という欺瞞的名称!)の人たちである(参考記事)。

適切な補助を伴う不妊化の義務化+遺棄の禁止とともに、「殺処分ではない動物行政」への転換脱皮が早急に望まれる。国の政治が、“あの哲学”に汚染されている現状を、改変することも急務だ(参考記事1, 参考記事2)。

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2009年7月20日 (月)

キリスト教と旧約聖書

キリスト教に関する文献や行事で、いわゆる旧約聖書がtaken-for-grantedに引用されることがよくあるけど、そもそも旧約聖書がキリスト教の教典にされたのは、相当後からの一種の政治的策略(つまり、こじつけ)じゃないの? 素直(すなお)に見れば、両者はぜんぜん関係ないと思うけど。だいたいそもそも新約聖書もかんじんのイエスさんのチェックは入ってないわけだから、教団的策略に類する記述が随所にある。

想像で言わせてもらうと、生前のイエスはユダヤ教教典(のちの“旧約聖書”)を、こてんぱんに否定したと思うけど。「アダムがイヴの肋骨から作られたと書き換えろ!、アダムからイヴが作られるなんて、生物学のイロハにも反するぜ、バカ!」なんて言ったりして…。

だから、数学にそろそろメタ数学が必要なように、宗教に対してもメタ宗教学が必要です。教団色政治色、共同体性==“権力としての宗教”臭、を完全に洗い流すこと。人類のコミュニケーション的健全性は、その上にこそ、明るく展開します。

日本人の心がまたまんまと戦争に収束しないためには、あの妙ちきりんな国家宗教を一刀両断にメタっておく必要があるね。

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2009年7月19日 (日)

reference: コミュニケーション忌避という宿痾

この前の「コミュニケーション忌避という宿痾」と題する記事では、このままでは日本は取り残されるなどと書いたが、それはいろんな面で言える。「インターネットと企業活動」という面では、この記事を読んでいただくと、日本人の現状にとってのハードルの高さを痛感できるだろう:

[リアルタイムWebとソーシャルな顧客関係管理]

グローバル化の進展の中で、多くの(とくに若い)日本人がトレードで食っていく、たまたまトレードというバスに乗れなかった人たちも十分に養っていくためには、取り残されては困るわけでして、最広義の「教育」から始まって、ぜったいに日本人の伝統的ネクラ資質+村閉じこもり資質をオープンでフレンドリでコミュニケイティブな資質へと変えていかないといけません。みなさまの今後のご活躍を、期待したい。

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2009年7月18日 (土)

デフォルトで夫婦別姓

最近身の回りで見聞するいくつかの事例によると、結婚している女性が個人的なアクションの場…労働やコミュニケーション、そのほかの対他トランザクションシーン…では旧姓を名乗ることが多くなっているようだ。

つまり、旧姓+名前でないと、本当の自分だと思えないのだと私は想像する。新姓+名前は、なにか単に、制度上の存在にすぎない、無味乾燥なよそよそしいものに思える…。

こういう例がとても増えてるとすると、それはものすごく新しく、ものすごく画期的な歴史現象だ。人類の明日は明るい、とつい思いたくなる。

個人でいるときも新姓+名前であるのが従来のふつう。それが、個人としては結婚してたって旧姓+名前なら、その鮮明な理解の仕方としては、不貞、不倫、浮気といったネガティブな言葉が完全に死語になり、本物の正真正銘の立派な「恋」しかないという事態になる。これは、すごい。その相手がたまにはダンナなら、ダンナも救われる。が…(笑)。

そういえば、男の子を床屋でなく美容院へ連れて行く母親たちは、ダンナとの相談了解等なしで勝手にやってるみたいだ。何千年も何万年も前から、女は本当は、結婚下に置かれる束縛されることが、すごーく嫌だったのではないか?

女性という性の、たぶん自然で無理のない姿は、(野良の)猫や犬の出産を見てると分かるぞ。複数の雄の精子で受胎した複数の子が、ころころと生まれるからね。かといって、全部受け入れるのではなく、見てると、ガーと怒って追い払う雄のほうが多いようだが。やっぱ彼女らも、本物の「恋」をしてるんだな、単にセックスをしてるんじゃなくて。

うううーん。今世紀後半以降、私のたましいは、また、地球上のヒトという生き物に宿りたくなってきた。男でも女でもいいが、どっちかというと女がいいね。弱い性よりは強い性のほうがいいよ、そりゃー。

[mainURL]

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2009年7月17日 (金)

ある種の公然たる動物虐待--野良猫をexploitするな!

映画、写真作品、漫画などなどで、野良猫へのシンパシーをメインに据えたものがときどきある。それは、風景としての野良猫に、あるいはヒトの役柄と野良猫たちとのinteractionに、作者が自分の何らかの想いを仮託しているわけである。まあ、野良猫たちが、勝手に都合良く、ダシに使われているわけだ。しかし、そうやって、野良として生きている猫たちを見物(みもの)とすることは、一種の動物虐待である。ネコという動物の正当な生き方は、愛される家畜としてのそれであり、野良猫としてのそれはその単なるhave-notにすぎない。生き方のalternativeでは断じてない。野良猫の一生は短く、苛酷で、悲惨である。そのことを直視しないおめれたい表現者たちのおバカ態度が、動物虐待なのである。

野良猫は、保護して飼い猫とすること。それができなければ、できないことの後ろめたさを自身の心の痛みとして持ち続けること。この二つに一つの選択肢しかありえない。[動物愛護の社会的な意味]

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腐壊していくマスメディア(II)

今や当のアメリカ人たちですら、かなりの数の人たちが、「宇宙は人類の真のフロンティアではない」「宇宙は重要でない」「宇宙は退屈だ」と言っているのに、「若田さん!若田さん!」報道のアホ。犯罪的なほどのアホ。[参考URL]

「中国のGDP成長率が〜〜でした」じゃなくて「○○は中国のGDP成長率が〜〜だったと発表しました」というニュース原稿にしてください。あんたたち、いつのまに、中国政府の広報の下請けになったん? ついでに、中国のこの種の統計データの、日米欧等との違いを解説して欲しい。

これからはインターネットも従来型マスメディアも、単なるニュースでなく(多様な)コメント付きニュースコンテンツが人気になるはず。[その一例]

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2009年7月16日 (木)

オール捨て子のすすめ

これは、子どもを最初から「社会化」し、「家族」「夫婦」などのネイティブでレガシーな旧共同体には属さない「個」と位置づけるために、生まれてくる子どもを全員大きなバケツに入れてシャッフルし、子どもを育てる意思と能力のある者へランダムに割り当てる制度である。

具体的な実装や、それに伴う問題点などを議論し始めるとたいへんなことになるので、あえてここでは純粋に理論的なレベルにとどめておく。

イエスという人物が、あの時代あの場所で、「神と一対一で対面している個」の宗教を導き出すという信じがたい天才ワザができたのは、(マリアの処女懐胎はイエス本人が怒るに違いない安っぽいフィクションだから)、マリアに拾われた捨て子だったからだ、と私は確信している。それぐらい、捨て子というものは、空前絶後にすばらしいのだ。

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2009年7月15日 (水)

イスラム教は一般向けにディスクールせよ

キリスト教は、たとえば新約聖書と呼ばれるディスクールには、無神無宗教の人間にも心に残る名文句がいくつかある。一般的に人を感動させ、いわゆる人口に膾炙しているフレーズもいくつかある。これに対し、岩波文庫のコーランに何度か挑戦してみたが、毎度、ほんの数ページで「アホらしい、くだらない、なんじゃこりゃ?」という感想しかもたらさない。

キリスト教は、当時の共同体的体制的宗教に対する、「個」の側からの批判であり革命である。だから、そのディスクールには一般的な感動性があるとともに、そのリーダーは共同体により抹殺されなければならなかった。ところが、今の、私自身の無知をベースとする印象では、イスラム教は共同体宗教への(しかも男性支配/男性至上幻想による)退化、後戻りと感想される。後発宗教としての、進歩進化の形跡がどこにも見あたらない。

イスラム教徒またはイスラム教のシンパが本稿を読んでいたら、コメントでも、あるいは適切なリンクの紹介でもいいから、一般人に理解と納得を(そしてできれば感動を)与えうる、一般性のあるディスクールをトライしてみていただきたい。私自身も、イスラム教に対する「なんじゃこりゃ?」からそろそろ卒業したい。ちまたに散布されている良質なディスクールが、少なすぎるんですよ、イスラム教は。

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男性用Tシャツ

真夏が早めに来まして、新しいTシャツを2〜3買おうと思ったんですが、なぜオトコ用のTシャツは、襟穴の小さい、着たとたんに暑苦しくなるようなデザインしかないのでせうか?。デザイナーたちの頭と心を、妙なオトコ像というやつが支配しているようだ。真夏のTシャツは、襟ぐりが大きめで、首から胸上部にかけての風通しが良くないと、それを着るのは地獄の拷問です。ちなみに今の典型的なオトコTシャツMサイズを針金ハンガーにかけてみると、ハンガーにかかっている箇所の径が16.5センチだ。60年代末のアメリカ製の、まあ許せるデザインのやつが20センチ。着た目も、こちらのほうがかわいい(袖もやや短め)。丸一日足を棒にして女性用を探せば、まあまあのがあるかもしれないが、ちょっと今のところヒマを見いだせず。[参考URL]

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