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2009年7月23日 (木)

野良猫をexploitするな!--つづき

本稿はまず、このブログ記事、次にそのコメント、と読んでからお読みいただきたい。

さて、なぜ、野良猫-or 野良犬, 野犬, for that matter-の存在の当たり前視がまずいかというと、それが、遺棄(猫を捨てる、犬を捨てる)の当たり前視の根拠になるからだ。捨ててもいい、という気にさせてしまう。野生生活の能力を持たない犬猫を捨てることは、単なる残酷行為である。

さてさて、ではなぜこのことが、「コミュニケーション学」と関係があるのか?。それは、人類の伝統的な資質であるコミュニケーション不能には、自分・自分の家族・自分の村・自分の企業etc., etc.さえ良ければ、そのまわり(他人、他の生きもの、自然、環境、社会全体、…)のことなんか知らん!どうなってもいい!という、劣悪な哲学が中心的に関与しているからである(参考記事)。

今の学校教育は、進学競争等を通じて、その哲学を奨励している。だから、今やおかしな人間が続々輩出されているのだ。

厄介ものの犬や猫が自分ちからいなくなって、さっぱりする。今の、コミュニケーション不能人種の矮小な脳が持ちうるのは、その認識までだ。その先がない。命に対する想いはおろか、誰かが迷惑するという認識すらない。このようなお粗末な脳を教育していくためには、野良猫(&野良犬)の存在を、当たり前の風景として、あるいは一種のあって当然の風物詩として、肯定視するような表現を、厳罰をもって禁ずるべきだ。どんな罰がいいかな?。たとえば、その映画を見たらどんな馬鹿でも二度と犬猫を捨てる気にならないような映画を作って全国を上映巡業する、という罰はどうだ?。今は、熊本県や山形県などの努力が先駆となって、行政の考え方も変わりつつあるから、保健所等がきっと協力してくれるはず。いちばんつらい、いやな思いをしているのは、毎週大量の、何の罪もない、犬猫を殺さなければならない保健所〜動物愛護センター(という欺瞞的名称!)の人たちである(参考記事)。

適切な補助を伴う不妊化の義務化+遺棄の禁止とともに、「殺処分ではない動物行政」への転換脱皮が早急に望まれる。国の政治が、“あの哲学”に汚染されている現状を、改変することも急務だ(参考記事1, 参考記事2)。

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