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2009年7月17日 (金)

ある種の公然たる動物虐待--野良猫をexploitするな!

映画、写真作品、漫画などなどで、野良猫へのシンパシーをメインに据えたものがときどきある。それは、風景としての野良猫に、あるいはヒトの役柄と野良猫たちとのinteractionに、作者が自分の何らかの想いを仮託しているわけである。まあ、野良猫たちが、勝手に都合良く、ダシに使われているわけだ。しかし、そうやって、野良として生きている猫たちを見物(みもの)とすることは、一種の動物虐待である。ネコという動物の正当な生き方は、愛される家畜としてのそれであり、野良猫としてのそれはその単なるhave-notにすぎない。生き方のalternativeでは断じてない。野良猫の一生は短く、苛酷で、悲惨である。そのことを直視しないおめれたい表現者たちのおバカ態度が、動物虐待なのである。

野良猫は、保護して飼い猫とすること。それができなければ、できないことの後ろめたさを自身の心の痛みとして持ち続けること。この二つに一つの選択肢しかありえない。[動物愛護の社会的な意味]

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コメント

この岩谷さんの文章には賛成3割・反対7割です。

たしかに、野良猫(や犬)を対象とした表現には、「安全な場所」が一方的に「危険な場所」に思い入れしているという、言いようのない不快さがあると思います。

しかし、こうした作品を作る人たちにも、野良猫を対象としていても、結局野良猫を野良猫として放置してしまう後ろめたさは、おそらくあると思います。

そして、野良猫に一度でも被害にあった人(洗濯物を汚された、など)の相当数は、野良猫排斥、行政は何をやってる、駆除せよ、という言葉をまきちらします。

野良猫を主題にした何らかの作品というのは、どんなものであれ、そこにはなんらかのやさしさのようなものがあると思います。少なくとも、野良猫としてしかとりあえず生きられなかった猫に対する一定の(野良猫を排除はしない)やさしいまなざしを人々に育むだけの観点は提供できてはいると思います。

野良猫排除という言葉だけが支配してはいけない、その支配を防ぐ、少なくとも排除をしないだけのやさしさを人々がもつきっかけくらいにはなるのではないかと思います。


投稿: nice | 2009年7月18日 (土) 21時59分

> 野良猫を野良猫として放置してしまう後ろめたさは、おそらくある
> やさしいまなざしを人々に育むだけの観点は提供できてはいる
私が本稿で問題にしているのは、多くの野良猫利用表現に見られる、野良猫というものの存在当たり前視、taken-for-granted視です。まるで、ふつうの、ありふれた、何の問題もない風景のように。また、その当たり前視の肯定を、多くのオーディエンスに「教育」してしまう悪業もある。

niceさんが言うような資質の表現作品も少数派としてはあるのでしょうが、たとえば大メジャーの、岩合ナントカという動物写真家の野良猫写真には、まるっきり無神経で粗放なtaken-for-granted視しか感じられなくて、昔から気持ち悪い。

> 賛成3割・反対7割です
現状を総合的に見るかぎり、賛成9.5割、反対0.5割ぐらいが、妥当なところではないでしょうか。

投稿: 岩谷 宏 | 2009年7月19日 (日) 19時11分

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