「自己」のpure and stark-naked aloneness
犬や猫のお世話をしながら彼らとつきあうことは、まず相手が、pure and stark-nakedなalonenessであることの再認から、そのまったく同質のalonenessが私の「自己」認識として自覚化されてくることである。
それは、自然の中に野生の生活がありえる動物を“ペット”として飼うという、一種のあからさまな動物虐待の対極にある、「イキモノとのつきあい」である。家畜の中でも、今の犬や猫の置かれている無用性、邪魔者性、それでいて立派にタマシイとココロを持っているという性質が、そのpure and stark-naked alonenessを際だたせる。(またお馬鹿な反論が今から予想されるが、ここで今から予防線を張っておくのはツカレルのでやめておこう。)
また、ヒトと彼/彼女(犬や猫)とのつきあいには普遍的に、そういうpure and stark-naked aloneness同士の対峙があるが、ただ即自的にそうあるということは重要でない。ヒトの自己認識が純化されるという対自的な相でこそ、そのつきあいには重要な意義がある。
この宇宙の唯一最大の神秘である「自己」は、本来、天涯孤独で寄る辺なき身である。それを英語で言うなら、pure and stark-naked aloneness、ピュアでマルハダカ…なにも持ってないなにも身につけていないなににも帰属/所属していない…の孤独、となる。犬たち猫たちを鏡として、そういう自覚を持つということが重要である。(「純粋」というあまりにありふれた漢字熟語と「ピュア」という片仮名日本語の語感が、全然違うところがおもしろい。)
そして、真の愛と真のコミュニケーションは、そういう自覚を持った者同士の間でしか始まらない。正しい、真に親和的な自然観(そのごく一環が正しい死生観)もまた、そういう自覚を持った「自己」のみが持ちうる。
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