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2008年12月31日 (水)

一般的全面的トレード強迫からの覚醒

トレードへの全員参加、どの個人もトレードに“成功”していないと生きていけない。(言うまでもなく、ほとんどの人の唯一の“商品”が、労働力としての自己だが。)
この強迫は異様であり異常である。そして、無意味に、繰り返す、無意味に、苛酷である。
トレードに参加してないやつもかなりいる、トレードにたまたま成功していないやつも常時かなりいる。それが当たり前の状態だ。しかし、だからといって不参加者や不成功者が生きるに困ることはない、のが社会の正常な状態。寒空にブルーシートのテントに寝てコンビニの廃棄弁当を食うようなことをしなくてよい。それが正常で健全な社会。

「子を作らない」と並んで、最近多い児童虐待殺も、トレード強迫の強制的普遍化がもたらしている慢性的不安が根因ではないか。

トレードは、たまの祭りだ。常態化全面化すべきものではない。人間すべてに、しかも全時間的に適用・義務化するなんて無茶、無根拠。
トレードの相対化を常識として定着すること。
この常識の上にたつ政治権力を国と世界が持つことが重要だ。

だれもやんないなら、私がやりたい。(というか、もちろん、オバマ氏ぐらいの若い人がいい。)
……おっと、オバマ氏は就任演説でワークシェアリングをやれと言っているから、トレードの相対化というラジカルな視点はなさそうだが……。
日本の今は、なさけないことに、明日に向かってのリーダーがいないぞ。
日本の民主党とアメリカの民主党、この雲泥の差。泥雲の差。
新しい第三勢力の早期勃興がぜひとも必要である。

そして、すべての社会保障社会福祉の一元化による、ケアフリー社会の実現を。
mainURLs: トレード強迫からの解放, 優しい日本を作る.

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2008年12月 7日 (日)

死との完全な和解

死は、ひとつの生命を自然にお返しすることである。
それは、きれいなことであり、よいことである。

どんな死も自然死である。
自然は正規分布に似た分布の乱数ジェネレータでもある。
だから少数は若死にする。

猫は、われわれ人間よりもずっと大きく自然に属している。
昨年18歳でお返しされたトマスは、死の直前の10分間、われわれを大声でよび、われわれのとこまでわざわざ出てきて、われわれにけんめいにコミュニケーション努力をした。黄疸でまっ黄黄の、もう声のでない口を大きく開けて。それは今解釈すると、自然から、自然の中から、われわれをその一員として認めてくれたサインだ。まあ、自然がわれわれに勲章をくれたようなものだ。トマスをうんと世話し、うんと遊んでやったから。トマスはわれわれにごほうびのメッセージをくれてから、行った。

人間は、自然と本当に仲良くならなければならない。搾取や開発や抑止の対象ではなく。人間が、自然の中で本当に(そして順当に)小さくなること。そしてそのための、自然という家の玄関の唯一の大鍵が、死との完全な和解だ。その鍵をひねらなければ、和解はいつまでもない。

人間は人間社会に属しているかもしれないが、自己は、まぎれもなく、完全に、自然の神秘に属している。それを、自然にお返しするのが死だ。そはもはや、人の差配にあらず。in other words, 死は人のものではない。もっとずっとずっと大きなもののものだ。

mainURLs: 「生よ驕るなかれ」「あとから襲来する他者」「動物愛護の社会的な意味」、「優しい日本を作る」

[追記]
死への恐怖、死に対するネガティブな感情が、多くの宗教の起源である。死との完全な和解は、人類の最大の課題の一つである宗教の廃絶、一般的な脱宗教に、決定的に貢献する。

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