クラウドコンピューティングのhubris
クラウドコンピューティングについては、この記事のような本質的な批判はさておいても、もっと下世話な部分で困ることがある。
そもそも、デジタル情報の伝送品質(速度×信頼性)は、
CPU-Memory > Memory-Local peripherals > Network
となっておりまして、その差は文字通りけた違いだ。プログラミングに興味のないかたも、拙訳書「Javaネットワークプログラミングの真髄」の最終13章『ネットワーキングの嘘と間違い』をぜひ読んでみていただきたい(立ち読みで?!)。
(Linuxがエライ!と思う点のひとつは、あまってるメモリのほとんどすべてをファイル等のためのバッファとして常時使い尽くしていることだ。CPU-Memeoryの伝送の最高品質を最大限に利用するためだ。)
クラウドコンピューティングの提供者たちは、伝送品質がNetwork==CPU-Memoryと想定している。この想定が「なるべく」実現すべく、GoogleのWebアプリはユーザが使用すべきブラウザを特定している。でも、そんな無茶な想定がたとえ近似的にせよ、成り立つはずがない。Webアプリケーションは、非常に使いづらい瞬間が多くて、いらいらします。そして、クラウドコンピューティングの利用があちこちで流行りはじめた今日では、私の予備機(450Mhz Pentium II, memory 256Mb, Fedore Core 3)が事実上使えなくなった。あたまにきますね。
さて、一者スキーム時代の哲学者たちは、ディアレクティーク(≒対話による真(新)理の生成)を、一者内のローカルな(ただし彼らにローカルというtermはない)CPU-Memory上の事象と想定している。本物の対話は、むしろNetworkに似ていて、現実的なlatencyがあるし、いっさいの予定調和や既定調和が成り立たない、ホンモノの生成/生起である。真の対話(たとえばメジャーな宗教間の対話)は、まだ始まってもいないが。
追記: むむ。ひとつの宗教は一者的な想定絶対者(一者性の究極の完成)だから、複数の宗教間の「対話」はありえないだろうね。だいいち、そんな対話のための共通言語が当事者においてありえない。言い換えると、人類のコミュニケーション不能と宗教はがっちりと手を握りあっている、濃く通底している。
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