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2008年10月26日 (日)

クラウドコンピューティングのhubris

クラウドコンピューティングについては、この記事のような本質的な批判はさておいても、もっと下世話な部分で困ることがある。

そもそも、デジタル情報の伝送品質(速度×信頼性)は、

CPU-Memory > Memory-Local peripherals > Network

となっておりまして、その差は文字通りけた違いだ。プログラミングに興味のないかたも、拙訳書「Javaネットワークプログラミングの真髄」の最終13章『ネットワーキングの嘘と間違い』をぜひ読んでみていただきたい(立ち読みで?!)。

(Linuxがエライ!と思う点のひとつは、あまってるメモリのほとんどすべてをファイル等のためのバッファとして常時使い尽くしていることだ。CPU-Memeoryの伝送の最高品質を最大限に利用するためだ。)

クラウドコンピューティングの提供者たちは、伝送品質がNetwork==CPU-Memoryと想定している。この想定が「なるべく」実現すべく、GoogleのWebアプリはユーザが使用すべきブラウザを特定している。でも、そんな無茶な想定がたとえ近似的にせよ、成り立つはずがない。Webアプリケーションは、非常に使いづらい瞬間が多くて、いらいらします。そして、クラウドコンピューティングの利用があちこちで流行りはじめた今日では、私の予備機(450Mhz Pentium II, memory 256Mb, Fedore Core 3)が事実上使えなくなった。あたまにきますね。

さて、一者スキーム時代の哲学者たちは、ディアレクティーク(≒対話による真(新)理の生成)を、一者内のローカルな(ただし彼らにローカルというtermはない)CPU-Memory上の事象と想定している。本物の対話は、むしろNetworkに似ていて、現実的なlatencyがあるし、いっさいの予定調和や既定調和が成り立たない、ホンモノの生成/生起である。真の対話(たとえばメジャーな宗教間の対話)は、まだ始まってもいないが。

追記: むむ。ひとつの宗教は一者的な想定絶対者(一者性の究極の完成)だから、複数の宗教間の「対話」はありえないだろうね。だいいち、そんな対話のための共通言語が当事者においてありえない。言い換えると、人類のコミュニケーション不能と宗教はがっちりと手を握りあっている、濃く通底している。


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2008年10月10日 (金)

モーリの言葉

私に代わってモーリの世話をするかもしれない人へ:

モーリは最近ときどき吠えますが、それを「うるさい!」と叱って終わりにしてはいけません。
今や高齢犬であるモーリは、おしっこがとても近くなっていて、「おしっこしたいので、外に連れ出してくれ」という意味で吠えるのです。だから、前の原っぱに連れ出しておしっこをさせてやればよいのです。

犬は猫のような“甘えて何かをリクエストする鳴き方”ができません。ウォンウォンと吠えることが、犬の言葉なんですね。
mainURL: 言葉の相対性原理

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2008年10月 8日 (水)

The Universe on the Plurality, 複数性を根拠とする宇宙

宇宙の唯一最大の神秘であり、唯一の実在である「自己」に行き着くことのないサイエンスは、一体なんだろう?

皮肉で逆説的なことだが、その唯一性は「自己」の複数性から開示/反照される。操作可能な対象としての他者があるのではない。複数の「自己」があるのだ。だから、コミュニケーションが存在の基盤となる。

(抽象的)一者である認識者が同じく一者である宇宙(〜存在)を…「対象」として…認識する、という従来の世界像==いわゆる自然科学or従来の全科学の基礎==を完全廃棄しなければならない。

その世界像が最初から破綻していることは、さまざまな、しかし同一パターンの、自己言及矛盾/逆説が示している。いちばん分かりやすいのはカントールの「すべての集合の集合」だと思うが、そのほか、ラッセルの自己言及パラドクス、“観測”の矛盾/逆説、“真理命題”の真理性の矛盾/逆説、ゲーデルの不完全性定理、などなどもすべて同じパターンである。また、さまざまな具体ドメインに、このパターンの表れがいくつかあると想定できる。たとえば、「素粒子発見の無限再帰予想(別名“猿のラッキョウ剥き予想”)」などはどうだろう。

存在を、一者vs一者という偽からでなく、あくまでも複数性の上でのコミュニケーションのキャッチボールの上で捉えれば、これらの矛盾/逆説(一者スキームの上だからこそありうる言説)は最初からありえない。

mainURL:数の起源と音楽

(本稿未完。たいへん難しいことを書き始めてしまった!)

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コミュニケーション不能をその中核的な本質とし、ゆえにきわめて頻繁に愚かで残酷な思考や行動(一般的な“他者虐待”)を取る、ヒトと呼ばれるぶざまで悲惨な生き物が、その本質の痛切な自覚もないまま、そのひたすらな無自覚の中で、一者スキームというありえない、偽の世界像において生み出したガクモンやサイエンスは、すべてクソでありカスでありゴミである。その愚かなhubrisの大仰な現れのひとつであるノーベル賞が、爆薬(最初の大量破壊技術)を発明した男の金で成り立っていることは、象徴的でありたいへんアイロニカルである(ヒトの歴史の中にはこのようなアイロニーが随所に仕掛けられている)。

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