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2005年9月24日 (土)

自己と他己

「自己」は、この宇宙に、唯一の異物として持ち込まれる。そしてその視野に宇宙はひらけ、やがて閉じる。そういう意味で、つねに無数の宇宙がひらけ、そして短時間で、またはある程度長時間ののちに、閉じている。猫のシーマの「自己」が、なぜどうやって、どこから来て、この場所この時間の、シーマと仮に呼んでいる猫の生体に宿り、その肉体の死とともに、どうなっていくのか、誰も知らない。それは、仮に“私”と呼んでいるヒトの生体に今宿っている「自己」に関しても同じである。あらゆる「自己」が絶対の孤独であり(“天上天下唯我独尊”)、そのほかのあらゆる「自己」とは絶対的に、超宇宙的に、隔絶している。それは、無限の高さと無限の深さの(超えられない)、おそろしい隔絶である。異なる自己間に、通ずるトンネル小路のような通路はない。同じ小さな部屋に毎日毎夜いる私とシーマも、そのおそろしい隔絶を壁のように共有している。机上を這う小さな虫も、対象物として見ればほとんど無感動無関心だが、これがまた立派な「自己」なのだと思って見れば、なんともおそろしいのである。植物の「自己」の構造も、いろいろ想像しているとおそろしくなる。

そして、コミュニケーションというものの、唯一の、リアルな基盤が、自己および自己たちの、このおそろしい存在仕様だ。(main URL: [個我の隠蔽性を引き剥がすことから始まる])

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